■ 令和7(2025)年10月08日(水) 福岡県八女市矢部村北矢部 元中九年(明徳三年、1392)の南北朝合一後も現・八女市の矢部村 高屋城に籠って徹底抗戦の姿勢を崩されなかった後征西将軍宮良成 親王は元中十二年(応永二年、1395)年に元・矢部大杣の大杣御所 において病によって死去された。 御墓は五條家と矢部の人々によって守り続けられて、明治十一年(1878) には宮内省(宮内庁)によって墓所として知定された。 以来毎年10月08日に供養祭が斎行されている。 当日は献饌など事前に奉じられていたものの、基本的式次第で祭典が 進行した。 元はというもの、延元三年九月(1338)に後醍醐天皇の命により九州の 地を南朝側に統べるために第六皇子の懐良親王が京を出立するが、その 時に従ったのが勘解由次官五條頼元以下12名であった。 懐良親王の征西府開府、そして文中三年(1374)年頃の良成親王への交代後 、懐良親王の弘和三年(1383)の没後も良成親王の後征西府将軍宮による 九州南朝を支え続けた。 良成親王没後も五條家は親王の墓所を守り続け、現在の五條家当主は 宮内庁陵墓守部を拝命されて、任を果たされていらっしゃる。 よって当日の祭典の祭主は五條家当主の元滋氏が執り行われた。 また、良成親王をお慰めするために歌われたという公卿歌が保存会によって 歌われ、そして皇紀二千六百年に作られた浦安之舞が巫女によって奉納された。 |
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![]() ![]() ![]() ![]() 川添昭二氏筆:後征西将軍宮発給文書考(「古文書研究」第19号、昭和57年) 他に 森茂暁氏著:懐良親王(ミネルヴァ書房) 太郎良盛幸・佐藤一則両氏著:九州の南朝(新泉社) |
(番外)懐良親王が一時期頼った阿蘇氏の領地にあった2つの遺跡
■ 古坊中 阿蘇中岳西側に中世期には36坊52庵もの寺院群が並んでいたという。火山の 火や山に神仏を認めた山岳宗教や修験道の聖地であったのだ。 最栄読師、つまり比叡山慈恵大使の弟子に当たる方で天養元年(1144)阿蘇大 宮司友孝の許しを得て阿蘇山が十一面観音菩薩を安置した。だが戦国時代に島津 氏らの攻撃を受けて衰退したという。 現在は崩れた宝篋印塔など寄せ集め塔が数基並ぶだけである。破折した板碑には 天文十二年(1543)の銘が読めた。 あるいは懐良親王も参詣したかもしれない。 |
■ 押戸石の丘 令和7年(2025)年10月09日(木)、阿蘇郡南小国町中原 『縄文の聖地・パワースポット』というキャッチコピーが付いた巨石群が阿蘇 五岳を望む丘の上に存在している。 大小多数の石が並ぶが、いくつかの石には個性が見られる。 添付写真上の三角尖がりで注連縄が荘厳された石が「押戸石」という。雨乞いの 石でもあるようだが、石に方位磁石を近づけると狂うことから磁気を帯びて いるという。某研究者は落雷によって帯電していると述べているが、拙者が 石の専門家に訊いたところでは落雷では石は割れるし帯電はしないという。 内部の鉱物の影響かもしれないが、不明だ。 添付写真中の「はさみ石」は二枚の石の間に夏至と冬至の時に太陽が通るから、 暦装置と云われる。石に暦装置の意味が有るとは例えば、岐阜県の金山巨石群で も同様な解釈があるが、いづれも縄文時代を代表する巨石文明の一つと思われて いる。 添付写真下は「祭壇石」といい、祭事の時にお供え物を置いたという。 他にも先刻文字でシュメール文字が見られる鏡石という石もあり、表面に ペトログラフが有るというがはっきりしなかったのでUPしてない。鏡石という 石は岐阜県恵那市の笠置山巨石群や青森県新郷村の俗称「ピラミッド」でも 見たことがある。 興味深い場所であるが、縄文時代の石器や土器が周囲から出土しているかは、 未勉強で不明だ。 |
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Last Updated 2025-10-15