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南朝の重臣として後醍醐天皇と後村上天皇に仕えた公家である北畠親房は
その知名度とは裏腹に、没地や墳墓の地の曖昧さがある。
『常楽記』では正平九(1354)年四月十七日に賀名生(現・五條市)で亡くなった とし、『北畠准后伝』『南朝編年記略』では大和国福西庄(現・宇陀市)灌頂寺 阿弥陀院で没すると記している。 今回、北畠親房晩年の地と伝わる箇所と、娘で後村上天皇中宮となった顕子の 御陵をUPしてみた。 |
| ■ 賀名生(奈良県五條市西吉野町賀名生)、令和2(2020)年11月29日撮影 |
上写真;賀名生の行宮となった堀家の建物前には皇居前橋がかかっているが、
この場所の反対側に山の斜面に登る道がある。5分ほど歩く、華蔵院跡地に
北畠親房の墓と伝わる墳丘と五輪塔が佇んでいる。
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| ■ 室生寺(奈良県宇陀市室生)、令和8(2026)年03月20日撮影 |
上写真;本堂の南西に北畠親房の墓と伝わる五輪塔が存在している。
『日本石造美術辞典』においては鎌倉時代後期に分類されているが、確かに
火輪の軒の反り具合などはその様に思えるが、室町前期の親房没時との
多少のタイムラグは様式に多大な影響は与えていないかもしれない。
同書によると、元は多気の国司の墓との言い伝えが有ったようだが、 親房の墓ではないかとということで大正五(1916)年に発掘調査が行われた。 下から骨壺が見つかったが、親房の墓とは特定されなかったということ である。現代の科学技術の分析力なら、他の発見が有ったかもしれ ない。大正五年という発掘調査の時期であるが、4年後の大正九(1920)年 には八代國治氏による『長慶天皇御即位の研究』が上梓されており、時代背景 から親房であると確定したかったことだろう。 |
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■ 北畠親房終焉の地(奈良県宇陀市奈榛原福西・灌頂寺跡) 令和8(2026)年03月21日 撮影 |
上写真;『南北朝編年史(上巻)』の親房死去に関するページ。
親房の著書『神皇正統記』と石碑。石碑周囲の景観。かつてはこの
場所に伽藍が建ち並んでいたのだろう。
『南北朝編年史』の著者である由良哲次氏は『北畠准后伝』の説で、
正平九年(1354)九月十五日に、大和福西庄灌頂寺にて死去とされている。
この地は今回訪問したが、終焉地の石碑は有っても墳墓は無い。
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■ 北畠親房の娘・後村上天皇中宮顕子、新陽明門院笠間山陵 (奈良県宇陀市榛原笠間)、令和8(2026)年03月21日 撮影 |
上写真;『南北朝編年史(上巻)』の顕子出家の記載。笠間山陵遠景。
御陵への右側に顕子が暮らした陽雲寺。
親房終焉地から直線距離で5Kmほどの現・宇陀市榛原笠間には親房の娘で
後村上天皇の中宮となった顕子が、新陽明門院笠間山陵に眠っている。
《参考文献》 |
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Last Updated 2026-03-30