汽車・電車1971〜 掲示板 |
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井川駅からの静岡駅行きのバスは廃止ではなく道路の崩落による休止だそうで、まだ時刻表に存在自体は残ってます。
ただ時刻は載ってないです(実質廃止扱い?)。あそこが静岡市葵区というのもすごいですが。
大井川鉄道に行ったら、蒸気機関車を楽しむか、電車でプチ関西私鉄博物館を堪能するか、井川線を楽しむか、迷いますね。
殊に一人旅だと宿の確保が・・・。
水の丘さん
都内で大阪までの普通乗車券とはそれはそれでエラー券?として珍品になったかも?
ちょっと複雑な発券してもらうときはつい後ろに何人並んでいるのかを気にしてしまいますが、みどりの窓口の数も減っている昨今、相談しながら購入するような場合は旅行センターなどへ行っていただきたいですね。
燕号さん
一筆書ききっぷは同じ駅を2度通過できない、というルールなので2度目が目的地のP形経路ならば良いのではないですか?
東海道から東北への乗り継ぎの案内はひどい話ですね。
実際接続待ちはしていないのかな。
伊 謄さん
なるほど合併して音は同じでも字が変わったのですね。
さっそく表記を直しておきました。
しかしあの物件を見に行かれているとは。
そういえば北陸のほうで馬車鉄道の車両の展示が始まったとか。
永野さん
木次線でもC56の逆機がありましたか。33‰を登るブラストを間近に聞けたのですね。
ドイツ機の制限速度、用途によってテンダの設計を変えて制限をなくしてしまうのはいかにもドイツ的合理主義ですね。
100km超での逆向き運転というのもすごい話です。
サービスの拡充もいいんですけど、基礎の「学力」は身につけて欲しいものです。
昔の国鉄職員は全国全駅名・全路線名を暗記させられたそうですが、今はどうなんでしょう?
ちなみに市川-銚子,通常の片道運賃が1890円です.
伊 謄さん
東京のすぐ近くでこういった光景が見られたのですからねぇ・・・
今この場所は住宅が立ち並んでいるのではないでしょうか。
RREさん
鍛冶屋駅は行ったことは記憶していたものの、どんなところだったかはさっぱり覚えておりません。
写真もこのヒトコマだけで、せめて駅舎くらい撮っておけばと。
さて、弊サイトは本日、本年3回目の更新を行いました。
今回のアップは、
砂利輸送から大手への大躍進 -「相模鉄道」
坊ちゃん列車の走る路面電車 -「伊予鉄・松山市内線」
全国を席巻した急行型気動車 -「国鉄・キハ58系DC」
の3コンテンツです。どうぞご笑覧下さい。
伊 謄さん
ご紹介ありがとうございます。
テンダ機の逆向き牽引は小運転だと全国各地で見られましたが呉線のように大型機がしかも何本も、というのは別格ですね。
武田さん
ご連絡ありがとうございます。
思わぬ形で里帰りした排4号ですが、昔のことでもあって譲渡の背景や年代などの記述が?なものも見かけます。
丁寧に調べられた武田さんのサイトを見れば分かることなのにと思いました。
TADAさん、内藤さんからご提供いただいた写真を、掲載させていただきました。
「はこだての路面電車」 http://wakouji.sakura.ne.jp/hakodate/
写真館⇒都電⇒東京の交通100年博
お時間のある方は、ご覧いただければ幸いです。
大夕張鉄道は距離の短い路線でしたが,区間運転を含めすべて前向き運転でした.お隣の夕張鉄道は栗山-鹿ノ谷間の列車は逆向き牽引でした.美唄鉄道や日曹炭礦も逆向き運転でしたね.考え方と労使関係なども影響しているのでしょう.大夕張の96はすべて自動焚き口戸に改造されていて,両手ショベルの投炭をしていました.
大きな声では言えませんが,昔の国鉄の規則は建前的なところも多く,速度制限などは+20km/hが当たり前,という話も聞きましたし,飯山線では←キ100+C56130+逆12199のラッセル回送列車と雪道の中私の運転するクルマと100km/h近い速度で並行道路をサイドバイサイドのバトルをしたことがあります.
C53などは130km/h以上は当たり前だったと,当時現役だった機関士さん(私の遠縁に当たる人です)からうかがったこともあります.
私が学生時代でも,中央線や西武線!などでも100km/h以上の暴走運転する運転士さんがいました.
スローピングバックテンダのC56は本来逆向き運転に備えての装備だったのですが、それを禁じ手にされてしまったのは皮肉というしかありません。
9600などもテンダは3軸、従輪なしですが問題はなかったのでしょうね。
C56の逆向きは末期の三江線で見られましたが、これは水害で不通区間があったための処置で、これ以外では伊 謄さんご紹介の小海線の野菜臨の他はみかけませんね。
水の丘さんの書かれた逆後補機の両頭列車も小海線の野菜出荷対応ですね。
C56のバック運転に関しての脱線云々の話も列車先頭だから脱線しやすいのか、バック運転そのものが脱線しやすいのか判らなくなってきました。そもそも本当に脱線しやすかったのかも含めてですが。
私は車輌の軽さと従輪の無い事がバック運転における脱線しやすさに繋がっていると思っていました。「北びわこ号」のC56160は運転の度に梅小路-米原間の東海道をDD51やEF65に牽かれて回送されていますが、帰路はバックで、しかもかなりの速度で回送されています。又、以前は「北びわこ号」ではバックで客レの牽引していました。問題は機関車だけにあったのでは無く、C56が投入される様な線区の保線、線路状態にもあったのだろうと思えます。
大井川にC56が入った時、上りも正面で来たので、運転方法が正行に変わったのだと勘違いしてC11を線路際で構えて、真っ黒な四角い箱写真を撮ってしまった苦い思い出があります。
「レイル myrail」1979年6月号に寺島京一さんによる「機関車史のうらばなし」という記事が掲載されており、6月号には第13回として、C56のバック運転について紹介されています。タイトルはこの回の副題です。
この記事によれば、C56の登場から間もない昭和11年に、小海線と七尾線で相次いでC56バック運転時の脱線事故が発生したということです。両方とも後進推進、つまり客車や貨車を先頭にした状態における脱線事故でした。事故時の速度は小海線が28-30km/h、七尾線は15km/hで、かなりの低速でした。
当時小海・七尾線を管轄していた名古屋鉄道局では、片開き分岐器の曲線をC56単機で(逆行?)通過させて、各位置の動輪フランジとレールとの接触状況を測定するという実験を行いました。実験には小海線の事故機C5626とC5623の2両を使用したそうです。
その結果、
・C56形は動輪の横遊間が少ない。(第1動輪で左右3.8mmに対し、第3動輪では、2.8mmしかなく、急曲線においては、動輪が競り上がりやすい)
・C56形は、横圧に対して軸重が軽い。
・急曲線、急勾配線区に使用したこと。
・推進運転に使用したこと。
以上4点を脱線の原因として考えられる、としています。
これらの実験結果をふまえて、C56形のテンダー前頭運転は、脱線の恐れがあるから、これを禁止することが必要で、特に後付補機に使用することは厳重に制限するよう結論づけています。
寺島さんは、当時の国鉄(鉄道省)は、この実験結果を受けてC56のバック運転をほぼ全面的に禁止したのではないかと推測されています。 そして、「従輪のない、軽量のテンダー機の悩みは、最後まで構造上の欠陥としてつきまとったのではないか」と結んでいます。
田駄雄作さんの書き込みにある「C56は脱線しやすいのであまりバック運転はしなかった〜」というのは、この実験結果に基づくものでしょうか。ただ、大井川鐵道や北びわこ号などでC56が脱線したという話は聞かないですね。JR(国鉄)線であれば、線路の状態が改良されていると思われますし、大鐵も戦前の簡易線に比べれば整備が行き届いているということになるのでしょうか。
前回の私の書き込みでは、国鉄時代のテンダー機バック運転は全て最高速度が35km/hに制限されていた、という解釈になってしまいますが、呉線のC62バック運転による旅客列車の映像記録を見ると、もっと速いように感じます。従輪のあるC62では、C56とは条件が異なるのでしょうが、実際の運用はどのようになっていたのか興味深いですね。
以前琵琶湖号は,毎日梅小路から米原まで有火で回送されてたことがありますが,PF牽引で結構な速度で走って,C56も力行してました.並行する快速電車も簡単に抜けませんでした.
1.外房線
房総東線時代の86の貨物ですが、大網から茂原までの下りがバック運転でした。
2.総武本線
小名木川などに転車台がありませんから、新小岩操車場から小名木川方面へはバック運転が基本でした。
3.八高線
見ているのは高麗川〜東飯能間だけですが、96の上り貨物とD51の上り回送で出会っています。
4.常磐線
水鉄局のC50の回送運転は上下線ともバックでしか見ていません(笑)。
5.呉線
C59牽引の上り普通列車で出会っています。
出会ったのはこれくらいでした。
所で45キロ規制ですが、キネマ旬報社の蒸機誌の何号だったか失念しましたが、美祢線のD51バック運転で「45キロ規制を受ける」旨の記述が有ったと記憶しています。従って大井川のC56も当初より45キロ規制だと思っておりました。しかし、バック運転は’87年当時でも「JR化による規制緩和の恩恵」と言われておりましたので、バック運転に関する規制が国鉄と私鉄で違っていて、JR(私鉄)化による一元化で一律旧国鉄の規制値(45キロ)の採用となったのではと自分なりに思っておりました。
省令公布前はどういう運用だったのでしょう。
鉄道運転規則の第87条では、
「列車は、炭水車付きの機関車を逆向きにして操縦する場合は、四十五キロメートル毎時を超えない速度で運転しなければならない。ただし、列車の最前部以外に連結する場合は、この限りでない。」
と規定されています。
この規則は昭和62年3月2日に運輸省令第15号として制定されたもので、国鉄分割民営化のためにつくられたと考えてよいでしょう。
一方、「鉄道ダイヤ情報」の1987年4月号には「(昭和62年)4月1日国鉄分割民営化にともない、蒸気機関車の運転規則が改正され、テンダー機関車のバック運転最高速度35km/hが45km/hとなり、(大井川鉄道の)C56のバック運転が可能となります。」とあります。
燕号さんが推測されたとおり、JR発足にともなう規則改正が、C56のバック運転を可能にしたということになります。
ということは、この規則ができる前(昭和61年春)に行われた、武豊線や東海道本線におけるC56160のバック運転は最高速度が35km/hに制限されていたということになるわけですね。
今年10月には、新金谷駅構内に転車台が完成して、大鐵蒸機のバック運転も家山折り返しなどを除いて見られなくなります。正向運転の方が絵になることは事実ですが、特徴あるテンダーを前にしたバック運転が見られなくなるのも寂しいですね。
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