日本! (南北朝)
No.12 南朝(新田義貞・脇屋義助 、生誕地)

清和源氏(河内源氏)義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳。 上野国新田荘(現・群馬県太田市)の御家人であった 新田義貞と脇屋義助の兄弟は 鎌倉幕府打倒から足利方北朝軍との戦乱に至るまで、終始 南朝の忠臣として戦い続 けた 武将であった。

新田義貞;正安3(1301)年生、延元3(1338)年8月17日 現・福井市で没。
脇屋義助;嘉元3(1305)年生、興国3(1342)年6月25日 現・今治市で没。

群馬県太田市に点在する、新田義貞と脇屋義助の史蹟を訪ね歩いた。


上写真2枚;台源氏館址(群馬県太田市由良町)
新田嫡流家の本拠地にして有力家臣である由良氏の管轄地である。実は新田義貞や脇 屋義助が どこで生まれたかはっきり判っていないようで、同じく太田市内の反町館址も候補地 の一つ である。ただ生誕碑はこちらの台源氏館の方に建っている。

上写真;総持寺(群馬県太田市世良田)
南朝の正平年間に鎌倉時代の館跡が寺になった「館寺」と云われる。館は新田義貞館 説が有るが、 世良田氏の館説も有る。

上写真;脇屋義助館跡(群馬県太田市脇屋町字原)
現在は住宅街の一角に碑が立っているが、近年まで南東部に堀跡などが残っていたと いう。

上左右写真;二体地蔵(群馬県太田市世良田)
鎌倉時代末期、有徳銭徴収のために世良田に来て新田義貞に切られた紀出雲介親連と 黒沼彦四郎入道 の墓という。鎌倉幕府打倒の挙兵の原因になった発端の史蹟である。

上写真;生品神社(群馬県太田市新田市野井町)
『太平記』には「元弘三年(1333)五月八日の卯の刻に 生品明神の御前にて旗を挙 げ 綸旨を ひらいて三度是を拝し、笠懸野へ打ち出でらる」と記されている。神社前の道路を鎌 倉へ進撃して 行ったのだろう。社頭に集まったのは一族30余名、従がう宗徒の兵150騎であった。 それが武蔵国に入る頃には「太平記」によると 20万7千騎になったという。誇張の 数で 1/10 としても 2万騎、、、たいへんな大軍である。

上写真3枚;明王院(群馬県太田市安養寺町)
前記の二体地蔵の史蹟は新田義貞が挙兵に踏み切った鎌倉幕府家臣の来館、そして生 品神社での 挙兵なのだが、挙兵に先立ち軍勢催促に不動明王が越後方面に飛び回ったという。そ の不動明王を 「新田触不動」と称し、明王院内に祀られている。
境内から出土したという「康永元年壬牛六月五日前刑部卿源義助生年四十二逝去」と 刻された 板碑も安置されている。なお、この地は新田館の跡地とも云われ、鎌倉幕府家臣を 斬ったのは ここの館と思われている。

上写真;花見塚(群馬県太田市武蔵島町)
後醍醐天皇の女官で義貞の愛妾となった勾当内侍が新田義貞戦死後にどうしたか、伝 承は幾つか 有る。京・嵯峨の往生院(祇王寺)で仏門に入って供養で生涯を終えた、淡海(琵琶 湖)に 身を投げたなど、、、。また、義貞生誕のこの地に来て菩提を弔いながら没した、と いう伝承が有り、 五輪塔はその供養塔であると伝わっている。

上左右写真;正法寺(群馬県太田市脇屋町)
新田義貞の弟である脇屋義助の菩提寺で、像と遺髪塚がある。

上写真2枚;円福寺(群馬県太田市別所町)
新田氏累代の石塔が並んでいる。その中の一基には「沙弥道義 七十二逝去 元亨四甲 子六月十一日巳刻」 と刻され、義貞の祖父である新田基氏の供養塔と思われる。 この場所には新田政義・政氏・基氏・朝氏の四代にわたって館が有り、隣接して円福 寺が建立されたと 思われる。

上写真;子方明神(群馬県太田市世良田)
円墳上にある石祠を子方明神と言い新田義興を祀ると伝えている。
ここの近く、総持寺の旧寺域に接して父方神社、母方神社と呼ばれた社があった。明 治の初め八坂神社に 合祀されたが、祭神は新田義貞とその夫人であり、子方明神はその子義興と伝えられ ている。
新田義興は義貞の二男で、武蔵野方面などで活躍するも正平十三(1358)年に多摩川 の矢口の渡しで 足利軍に囲まれて自刃している。その時の従者は世良田右馬之助ら十三人であった が、世良田館跡の 近くに鎮座しているから、義興らの供養塔が有ったのかもしれない。

上写真;威光寺(群馬県太田市由良町) 宝篋印塔が新田義興の供養塔と云われているが、詳細は不明。

上写真;東武鉄道太田駅(群馬県太田市東本町)北口に建つ、新田義貞と脇屋義助の像。

上写真左側;生品神社、右側は太田市立新田荘歴史資料館(世良田町)前に立つ、稲 村ケ崎で 黄金の太刀を投げて龍神に祈る姿の義貞像。

上写真2枚;(番外)太田市で新田義貞・脇屋義助探訪の間に3回寄った 巾広うどん「おきりこみ」のお店。 『新田乃庄 寒山亭』(太田市寺井町)。
「おきりこみ」とは 中国から伝来し京の宮中で食べられていた薬膳料理で、12世紀に上野国新田荘を開発 した新田義重 (新田義貞の7代前)が、宮中の食材を管理する大炊助として務めていた際に習い覚 えて、 本拠地の上州に戻ってからも好んで食べ、一族に伝えたという新田家伝来という伝承 がある。 で、この「おきりこみ」は 2014(平成26)年03月20日に 群馬県選択無形民俗文化財 に選ばれている、 れっきとした郷土料理なのだ。幅広麺だから、甲府周辺では「ほうとう」と云われる が、「ほうとう」が 武田信玄由来なら、この「おきりこみ」は更に600年も遡る新田義重由来である。 「おきりこみ」の名前の由来は 麺棒に付いたまま包丁で切り込んで鍋に入れるか ら、という。新田軍が 賊軍に 切り込んだ合戦由来の名前ではない。 上写真は「だし醤油おきりこみ」と「馬刺し」。軍馬を食べるわけではない(汗)。


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Last Updated  2022-05-22