日本! (南北朝)
No.17 長慶天皇御陵墓(1)

各地に点在する「長慶天皇御陵墓」を参拝した(其の一)。

長慶天皇 [日本第98代天皇、南朝第3代天皇] 寛成親王 長慶院、慶寿院、覚理、 金剛理 1343年〈興国4年/康永2年〉- 1394年8月27日〈応永元年8月1日〉)
在位:1368年〈正平23年/応安元年)〉3月 - 1383年〈弘和3年/永徳3年)冬〉

長慶天皇が後亀山天皇に1383年に譲位してから1394年に崩御されるまでの11年間の動 向が 不明で謎に満ちているため、その間に全国各地の南朝勢力の土地を督励に訪れてい た、という説から各地に 長慶天皇所縁の地が出来上がった。それだけでなく、その地で崩御されたという地が 多く存在する こととなった。

長慶天皇は南朝が衰微した時であったからか、即位の有無が江戸時代から議論されて きた。

つまり長慶天皇が即位していれば南朝第三代天皇となるが、即位が無ければ南朝自体 が三代 ということになるから、事は重要であった。ちょうど明治44(1911)年03月03日に明 治天皇の 勅裁によって南朝が正統(いわゆる南北朝正閏論)と定められたというイデオロギー が有った ゆえ、南朝の正統性を論ずるに避けられない案件であったのだろう。

大正9年に公開された八代國治博士の『長慶天皇御即位の研究』などの学問上の確認 がなされて いることを受けて、大正15年10月21日に「詔書」によって長慶天皇の即位が認められ た。

皇統加列が決まれば御陵を定めなくてはならなくなるが、昭和10年6月17日に宮内大 臣の諮問機関 として「臨時陵墓調査委員会」が設置された。その時点で相馬陵墓参考地(青森県弘 前市)と 河根陵墓参考地(和歌山県伊都郡)の「参考地」以外にも、実に「二百有余ヶ所」の 多きに達して いたという。皇統加列の後に、「おらが村にも有る」的な村興しで名乗り出た箇所も 多く有ったの だろう。

「臨時陵墓調査委員間」ではその中から全国73ヶ所の調査を行っているが、明らかに 近年に 申し出たような「村興し」的な箇所は除外されたのだろう。

調査委員会ではその調査箇所に分類を付した。すなわち 第一類の(イ)単なる想像によるもの、(ロ)伝説によるもの、(ハ)付会の説をな すもの、(二)偽作偽物 第二類の 的確なる資料を欠くも尚捨て難きもの である。 

今回、何カ所か長慶天皇の御陵墓と伝わる箇所を参拝してみたが、上記の調査委員会 の昭和10〜11年の 資料における分類以外に、私が参拝してみた現地の状況を下記に分類してみた

(A)長慶天皇の名前が看板に有り、整備されている、(B)名前も表記なく、荒れ ている、 (C)(A)と(B)の中間。

「臨時陵墓調査委員会」の分類と、その調査の一世紀弱の後に歩いた感想を下記にUP する。


■ 参考文献

下写真右;大正15(1926)年11月28日精文館書店発行「国史研究 長慶天皇御紀傳」 笹原助氏著
下写真左;大正15年12月5日正文館書店発行「長慶天皇御事蹟並ニ其取扱」堀尾義根 氏編
下写真中;外池昇教授論文「臨時陵墓調査委員会による長慶天皇陵の調査」〜『日本 常民文化紀要』29、2012年


■ 嵯峨東陵(京都市右京区嵯峨天龍寺角倉)

長慶天皇の御陵墓の地は「参考地」が有るだけで、不明のままであった。

臨時陵墓調査委員会(昭和10年 - 昭和19年、1935年 - 1944年)で審議の結果、桓武 天皇や 安徳天皇など埋葬地以外に陵が治定されている「擬陵」の前例を踏まえ、昭和16年 (1941年) 慶寿院跡を整備してひとまず陵墓参考地に指定したが、その後の調査でも長慶天皇の 御遺骸の葬地 は判明せず、長慶天皇は南北朝合一後、京都に入り皇子海門承朝が止住する天龍寺塔 頭の慶寿院に 住みそこで崩御したのであろうとの答申を宮内大臣に提出し、昭和19年(1944)2月 11日 (旧紀元節)現陵号を定めた。同時に陵域内に長慶天皇皇子の海門承朝(承朝王;憲 明、 南禅寺相国寺住持)の墓も治定されたが、遺骸の埋葬が確認されて無い、いわゆる 「擬陵(空墓)」である。 御陵域は綺麗に整備されており円墳が二基、つまり長慶天皇御墓と海門承朝が並んで いる。

余談ながら、長慶天皇が元中9(1392)年の「明徳の和約」で後亀山天皇と共に京に 入った記録は無い という。

この御陵が「政治的」決定によるものであるから、実は他所の「おらが村の御陵」が 実際には真の御陵である 可能性も有るだろう。


■ 旧相馬陵墓参考地(青森県弘前市紙漉沢)上皇宮

昭和10年の臨時陵墓調査委員会設置の時点で、「参考地」ということで長慶天皇陵に 見込んで 指定されていた。それでも調査委員会が下した判定は、第一類(二)偽作偽物 で あった。

現状では地元によって維持されており、(A)の状態である。

長慶天皇を御祭神とする上皇宮のお社の背後の山上に「長慶天皇御陵墓参考地」が存 在するのだが、 ここ 現・弘前市紙漉沢で崩御されたのは応永10(1403)年06月01日だという。これ は現地に伝わる 石田家文書によるというのだが、これは三河吉野朝の根本資料である 青木文書と同 様、怪しげな香りがする。

なお長慶天皇の崩御は、現・和歌山県九度山町の玉川宮が存在したとされる場所で は、応永21(1414)年 04月04日と云われている。そして三河吉野朝では天授5(1379)年09月20日とされて いる。どこも 地元の伝承に都合良い年月で表現されているような気がする。

ちなみに1926年(大正15年)10月21日、長慶天皇の皇統加列の際に研究された八代國 治氏・武田祐吉氏 によると応永元年(1394)08月01日に御崩御いうことである。


■ 天狗平 御陵墓(青森県青森市浪岡北中野)

青森市浪岡に点在する 長慶天皇伝承には、中世に浪岡城を拠点とした武将との関連 が考えられる。

その武将とは 後醍醐天皇のブレーンであった公卿武士北畠親房の長男である、北畠 顕家である。

霊山城(現・福島県伊達市)が落城時、顕家の嫡子の顕成は津軽に逃れてきた。1347 年頃と思われる。

以来、1578年に大浦為信に攻められて浪岡城が落城するまでの約230年間にわたり、 浪岡は北畠の地と して栄えていた。

伊勢の北畠は顕家の弟の顕能を祖とするが、伊勢北畠は南北朝合一(1392年)の後 も、後南朝勢力を 支え続けた経緯がある。浪岡北畠も同様に、後南朝の隠れ勢力として暗躍していた可 能性がある。

後醍醐天皇のブレーンであった北畠親房の血統の浪岡北畠であるから、長慶天皇の貴 種流離譚が発生する のも、分からないでは無い。

今は何も残っていない(C)であるが、この山が御陵とされた資料は「応仁武鑑」 「長慶天皇御世譜」 によっている。ただし資料的価値が低い(偽書か?)ということで、天皇御陵の裏付 けにならなかった という。


■ 三婆羅塚御陵(青森県新郷村崩)

「キリストの墓」や「ピラミッド」の有る新郷村には、長慶天皇の御陵も存在する。 この地は長慶天皇が崩御した土地で、その御陵の墓守に崩という苗字を与えたのだと いう。

その由来話は 昭和10(1935)年ころに「ある文書」を元に国の役人が調査に訪れ、 長慶天皇がこの地で 崩御したと伝えたのだという。それまで集落では 高貴な人の墓とは伝え聞いていた が、それ以来 長慶天皇陵墓と認識するようになったという。

確かに長慶天皇の御陵を決定するために 昭和10年に国の「臨時陵墓調査委員会」が 設置されているので、 国の役人が崩の地を訪れた可能性は有るかもしれない。 しかしその委員会委員が「ある文書」を元に、崩の円墳が長慶天皇陵墓と伝えた可能 性は全く無い。

なぜなら宮内庁が定めた長慶天皇陵墓は京都の嵯峨野に治定されたからである。とす れば「文書」を持って 訪れたのは「竹内文書」の竹内巨麿、あるいはその信奉者であった可能性も有る。 竹内巨麿は昭和10年に新郷村戸来の塚を「キリストの墓」と認定した超国家神道宮司 である。

竹内巨麿が認定しながらポピュラーにならなかったのは、残念ながらキリストと長慶 天皇の知名度の違いだろうか。。。

臨時陵墓調査委員会の資料には記載のない場所であるが、状態は(A)である。


■ 長慶寺 天皇陵(群馬県太田市新田上田中町)

群馬県太田市で 南朝の忠臣 新田義貞公の関連史跡を巡った時、南朝 第三代天皇で ある 長慶天皇(日本天皇 第98代)所縁と云うお寺も参詣した。

道路に面した駐車場に、添付写真のような大きな看板、、『千利休先祖菩提の寺 長 慶天皇ゆかりの寺』が立つ。

太田市の HP には、下記の記載が有る (下に コピペで) 「長慶寺は新田義重の孫、田中五郎義清が高崎の里見から新田に来て、この地(田村 村)をおさめ〜その十数代後の 田中千阿弥(千 利休の祖父)が戦で新田から大阪に行き〜戦に敗れて堺市で商人に 成った。その孫が田中与四郎 (改名して、千 利休)である。その利休の先祖である田中五郎義清の墓が長慶寺に ある(千 利休 先祖 菩提の墓) 南北朝時代、長慶天皇が北朝から身を護る為、新田一族を頼って、この地に来て、得 阿弥と云う名に改名して 長慶寺に住む。(その後の消息は不明)」
(以上)

長慶天皇が滞在されたというその期間、新田荘は新田嫡流が散り散りになり、長慶天 皇を迎え入れる程の 南朝勢力基盤は失われていたと思われる。

ただ言えるのは、信義を貫き戦い続けた新田一族と南朝贔屓の土地柄からその後に生 まれた伝承であろう。

その逸話の生まれたバックボーンこそ、大切にしたいものだ。 臨時陵墓調査委員会の資料に記載無し。ただし状態は(A)。


■ 南朝英霊社(山梨県富士吉田市大明見)

『富士宮下文書』という、いわゆる「古史古伝」的文書集が存在する(現存は写 し)。

その文書によると、古事記・日本書紀に現される遙か太古の昔、富士山を聖なる山と 崇敬した神々は 北麓の地を 高天原(たかまのはら)と名付けて住みつき 壮麗な神宮を創建して王朝を確立し て、富士山を拠点に日本を統治 したという。中心地となったのが 阿祖谷(阿祖山)で、現在の富士吉田市だとい う。

その神々の祀った神宮を 阿祖山大神宮といい、不老不死の薬を求めて来日した徐福 が記録を収集して書き留めた 文書に由来するのが、『宮下文書』である。この神々の記録群が伝わったのが阿祖山 大神宮の宮守を行っていた 宮下家であるから、文書が「宮下文書」と称している。

阿祖山大神宮は富士山の噴火や、南北朝期に南朝側に付いたことから足利賊軍に襲撃 されて、多くの記録が失われた という。しかしながら「富士隠れ南朝本陣」が存在したことから、同書には南朝に関 する資料も含まれるという。

このように、X-ファイル のような話が有るのだ。

現在では 富士王朝に関する『富士宮下文書』は 偽書 とされているが、長慶天皇の 崩御の地とされている場所が 阿祖山大神宮の近くに存在している。

ここは臨時陵墓調査委員会によって第一類(ハ)付会、(二)偽物に分類されてい る。状態は(A)である。


■ 福地八幡社(山梨県富士吉田市下吉田)

偽書とされている『富士宮下文書』において、もう一箇所 長慶天皇御陵の地とされ ているのが福地八幡社である。

臨時陵墓調査委員会の分類では第一類の(二)で、「偽物たる富士文書を根拠とする ものなり」と記載されている。

神社に現在、長慶天皇の名前の記載は全く見当たらず、私の分類では(C)である。


■ 王塚 地蔵堂(愛知県稲沢市祖父江町山崎塚西)

南朝 の 長慶天皇が皇統に大正15(1926)年10月21日に加列されたものの、陵墓の場 所が不明であったことで 昭和11(1936)年に「臨時陵墓調査委員会」によって全国の長慶天皇陵墓伝承地73か 所が調べられた。

その資料に掲載されている一箇所に、現・愛知県稲沢市に存在する「王塚の地蔵堂」 が長慶天皇陵墓の一つと されている。

資料に記載された住所は愛知県中島郡祖父江町山?字王塚で、添付写真の上がナビ画 面で下が地蔵堂である。

ただし調査委員会による判定では第一類(ハ)「王塚ナル名称ニ據ル附會説ナリ」と されている。 現場で探索しても、長慶天皇どころか 「長」も「天」の字さえも見つけられなかっ た。昭和10(1935)年前後ころ までは伝承で伝わっていたのかもしれないが、偽説が判明して伝承が途切れたのであ ろう。

昔は古墳でも存在したのかもしれないが、地名の「王の塚」を「長慶天皇」に結びつ けたという事が面白い。

王=天皇 という認識が地元民、あるいは庶民の間では一般的だったのだろうか。 英語で天皇はキングではなく、エンペラーと訳される。王は一国、一民族の君主であ るが、欧米などでは諸国、 諸民族を束ねる帝国の帝王が皇帝(エンペラー)である。皇帝=天皇 > 王と言える が、元々一国一民族の日本が 王ではなく皇帝を名乗るのは、中国の皇帝(エンペラー)と同等の存在であるとの意 味合いが有るという。

つまり王(キング)であると、中国の臣下になってしまうからだ。

唐代・宋代において 天皇を「日本国王」としたのは、日本を見下していたのかもし れない。

中国からの視線ではなく、「王塚」=「長慶天皇陵墓」とした、昔のこの地域の人達 の考えには、王こそ最高位 という解釈が有ったのであろう。

現状の私の分類では(C)である。


■ 三河南朝(愛知県豊川市 小田淵町、御油町万福寺)

三河地方(現・愛知県東部)に「三河吉野朝」が存在したという 勝櫂侫.ぅ が存 在する。 http://www.photoland-aris.com/myanmar/chou/16/

その「三河吉野朝」論も唯一絶対説が無いのか、中西久次郎氏が昭和60年9月20日に 発行された 『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』では、古文献の『青木文献』に基づいて、天 授5(1379)年9月20日に 現在の豊川市で崩御されたと記してある。

一方、『三遠国境の南北朝攻防戦』や『南朝正統皇位継承論』などを書かれた南朝史 学会の藤原石山氏は 長慶天皇は「石巻山城の落城で三河吉野朝が崩壊し、長慶天皇は富士谷の隠れ城へ逃 れた」と、『富士宮下文書』 との関連で記載されている。

『青木文献』も『富士宮下文書』も現在では偽書とされている。ゆえに臨時陵墓調査 委員会もこの地の崩御を 分類第一の(ハ)偽作とされている。現状の私の分類では(C)である。

上;小田淵稲荷神社(王田殿)長慶天皇崩御の地という。

上;御油町 万福寺。地名は万福寺と云うが、寺は今は無い。長慶天皇の御尊体を納 めた地という。 現地には長慶天皇を示す痕跡は、全く残っていない。


■ 八幡山古墳(名古屋市昭和区山脇町)

5世紀中頃に造られた東海地方最大級の円墳であるが、長慶天皇の御陵説が有った。 その事は現在(2022年時点)においても御器所八幡宮の HP に記載されている。なお 上記の「参考文献」 でも UP した大正15年12月5日正文館書店発行「長慶天皇御事蹟並ニ其取扱」堀尾義 根氏編においても 記載されているが、それによると「愛知県史蹟調査会の調査では 長慶天皇との関連 は断言しがたし」と記載 されている。

臨時陵墓調査委員会の報告には記載がない。古墳としては整備されているが、立ち入 りは無論不可である。



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Last Updated  2022-08-22