日本! (南北朝)
No.19 護良親王の御首級と雛鶴姫伝説(山梨県)

令和5(2023)年01月15日撮影; 石船神社、雛鶴神社2社
令和4(2022)年02月20日撮影; 小室浅間神社

■石船神社 宮世話引継式(山梨県都留市朝日馬場)

御首級に関してはついついそのバックボーンに興味がいくが、現地では御神体として崇敬と敬虔な 気持ちで信仰されていることを、先に記しておきたい。

後醍醐天皇第一皇子(または第三)である大塔宮護良親王の御首級と伝わる御神体は、01月15日の 宮世話の引き継ぎ式(初祭)において確認のために本殿から出された時に拝することができる。 御首級は面長約24cm、横約16cm、右眼開き左眼水晶またはガラス状の玉が嵌められている。 <

P> 解剖学と人類学の権威であった鈴木尚教授が昭和52(1977)年の初祭の際に鑑定されたところ、 複顔は寄木細工や粘土で肉付けしてから漆を塗って行われたということである。

頭頂孔には木の根が入って抜けないが、これは御首級を一度地中に埋葬後に骨になってから改葬し、 首の上に複顔術を施したものである、とのこと。

古史古伝(いわゆる偽書扱い)の『富士宮下文書』において、護良親王の御首級は鎌倉から現在の 富士吉田市に鎮座する小室浅間神社に埋葬、後に足利の探求を逃れるために改葬したと書かれている (その一文は三輪義?氏著『長慶天皇紀略』に読める)。

『都留市史(都留市発行)』には人類学・解剖学の権威であった鈴木尚教授の昭和55(1980)年の 報告が掲載されており、後に頭骨をレントゲン撮影などなされたゆようだが、いつの時代の頭骨で あるかまでは鑑定結果が出ていないのである。ただ、復元加工が剥がれた部分には梵字(種子)が認め られるとのことで、『市史』では髑髏信仰のあった真言立川流との関連も述べられている。真言立川流は 江戸時代中期に消滅しているから、もしそうなら江戸時代中期以前ということになる。偽書研究の 原田実氏は『トンデモニセ天皇の世界』の中で、江戸時代の一揆で刑死した人を民の為に命を捨てた 義民として祀るために領主を憚って護良親王に偽装したのではないか、と述べておられる。ただ氏の 考えでは、『富士宮下文書』が世に登場する明治時代より何百年も前に護良親王の御首級として扱っていた ことになり、その偽書と時代が合わない。

江戸時代中期に地誌として書かれた『甲斐国志』には石船神社と護良親王を結び付ける由来は全く 記載されていないようで、やはり御首級=護良親王説を江戸時代より古く思うのは難しいように思う。

農民の一揆によって命を捨てた義民の御首級が江戸時代中期までに御神体として複顔され、それが 明治時代あるいは大正時代になって『富士宮下文書』と結びつくことで御首級=護良親王 となった のではないかと思うのだ。

上写真;社殿

上写真;宮司さんによって御扉が開扉された状態で、御首級が納められた金庫が見えている。 この金庫が見えた途端、拝殿の拝列者に緊張が漂った。開扉、献饌、祝詞、玉串奉奠など儀礼 は金庫扉が閉まった状態で斎行される。

上写真;宮世話の交代で、金庫から出された御首級が一年に一回だけ上拝殿にお目見えされる。


■ 雛鶴神社について

雛鶴神社は、後醍醐天皇の第一(または第三)皇子である大塔宮護良親王の寵姫南之御方(諸伝承あり) 雛鶴姫を祀る神社である。

この雛鶴姫の伝承を元にした神社が都留市の雛鶴神社、そして上野原市秋山無生野の同じく雛鶴神社である。

伝承は護良親王が北条高時の遺児・時行を奉じた中先代の乱に端を発する。足利尊氏と後醍醐天皇の 策によって鎌倉に幽閉されていた護良親王は 中先代の乱で護良親王が北条遺児に奪われるのを恐れた 足利直義の命により、淵辺義博によって奉殺された。その御首級を護良親王の寵妃であった雛鶴姫と忠臣 が持ち、鎌倉から脱出した。京へ向かったのだろうが軍兵らを避けて甲斐の山中に入り込んだ姫は山中で 護良親王との王子を出産するも母子共に亡くなってしまった(または子は生存と二社によって伝承が違う)。

その地に姫を祀る神社が鎮座しているのだ。

では護良親王の御首級はというと、家臣の松木宗光によって現・富士吉田の小室浅間神社に納められたが 足利尊氏の探索から逃れるために、さらに石船神社近くの山に埋葬、そして石船神社に祀られることと なった。つまり護良親王の御首級が都留市の石船神社に存在するということになる。

御首級は石船神社の御神体であるが、一年に一回01月15日の宮世話の引き継ぎ式である初祭の時に、 その御首級が確認の為に本殿内の金庫から出されるのである。御首級であるから頭部が御神体 ということになる。

この雛鶴姫の貴種流離譚および護良親王の奉殺された後の御首級の後日譚は実は、どうやら『富士宮下文書』 が原本になって生まれた伝説のようなのだ。 伝説がいつの間にか史実と認識されて、いろいろな事が出来上がっていったのである。

『都留市史;資料編 民家・民俗』(平成元年発行:都留市史編纂委員会)にも石船神社の御首級や雛鶴姫 に関する記載はあるが、実は厳しい見方がされている。伝説の出所が今では偽書とされている『富士宮下文書』 だからであろう。

私はこの御首級について知ったのは、偽書研究家の原田実氏の著書においてである。何ゆえに護良親王の 御首級が御神体として存在するのかと、不思議であった。作られた(偽書が根源だから)伝承であっても、 地元にしっかり定着している事実を感じた。全国的にみても御首級が御神体として祀られていることは極めて 稀である。

その御首級の正体が誰であれ、真摯に向き合う地元氏子さんらの姿には心打つものがある。ただしその地元の 信仰心とは別に、なぜ護良親王の御首級という奇譚が信じられて雛鶴姫伝承が史実として定着したかについて は、興味深いところである。


■ 雛鶴神社(山梨県都留市朝日曽雌)

神社へは県道35号の途中から山中へ入るのだが、その道が未舗装でしかも凹凸だらけの悪路でしかも すれ違い困難なため、進入時間が上り下りで設定されている。

都留市の御神体は護良親王そして雛鶴姫の持仏(神像)である天神様。空海作ということだが、空海は 道真公の生まれる10年ほど前に亡くなっている。

境内には「雛鶴姫墓碑」が立っている。神社の案内看板によると、雛鶴姫はここで皇子・綴連王を出産後 亡くなるが、皇子は12歳までこの地で生存して正平元年12月30日に没したという。

尚、親王妃南之方は滋子となっており、それが雛鶴姫に転化されたのだろう。


■ 雛鶴神社・葛城神社(山梨県上野原市秋山無生野)

この神社は県道35号に面しており分かり易い。駐車は道路脇に一台停められるスペースが有る。

神社は雛鶴姫を祀る雛鶴神社と、護良親王の皇子である葛城綴連王を祀る葛城神社の二社の名前が 額に掲げられている。神社案内看板によると雛鶴姫はこの地で出産と同時に死去し、児も死去した と記載されている。よって葛城綴連王は護良親王の皇子だが、雛鶴姫の子ではない。

葛城綴連王は興良親王と同一人物という伝承もあるが、諸国遍歴後に秋山の地で天寿を全うしたという。


■(番外)小室浅間神社(山梨県富士吉田市下吉田)

『富士宮下文書』にいうところの「富士高天原」宗廟の「阿祖山太神宮」の伝統を受け継ぎ、後に 同文書の研究家となった三輪義?氏が神社を訪れた時の宮司さんが同文書を保管していた宮下氏で あったという。

前記したように護良親王の御首級は遺臣によって一端はこの小室浅間神社に葬られたといい、同神社 境内には古蹟として祀られている。


■ 参考文献

『都留市史』によると、貴種流離譚として雛鶴姫の鎌倉脱出譚が有ったところに護良親王の御首級の 話が出たため、この2つの別々の話が結合して今の伝承が出来上がった可能性を指摘されておられる。 歴史という時間の経過と村落のアイデンティティを求める民心が大きな哀史を創作した可能性が有る、 ということだろう。

ちなみに偽書研究家の原田氏によると、古史古伝の『甲斐古蹟考』においては雛鶴姫は古代の 興縄彦の妻として登場するようだ。興縄彦は同書だけに登場する初代鶴国造だそうで、鶴(都留)と いう国をなしていたという。興縄彦の妻の雛鶴姫は鶴が好きなゆえ、その雛を多く育てたことから 国が「鶴(都留)」と呼ばれたのだという。古史古伝とはいえ、何だか納得してしまう説だ(だから 危ない)。


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Last Updated  2023-01-23