日本! (南北朝)
No.21 (番外)「竹内文書」モーゼ、キリストそして長慶天皇御陵墓

日本最古の歴史書である「古事記」「日本書紀」より古く、それらは漢字が伝来する 前の文字、 いわゆる神代文字で書かれた書物が有るという。そのように神代文字で 書かれた歴史書を 古史古伝と云う(by超古代史研究家;吾郷清彦氏)そうだが、代 表的な書に「竹内文書」が 存在する。原本は800億年(!)前から書き継がれてきた ものが、武烈天皇二年(西暦500年頃) に漢字と仮名を交えて解読再編され、それが 再編者である平群真鳥の子孫である富山県の竹内家 に伝わってきたという。その 「竹内文書」とは書である「竹内文献」以外に御神宝など器物類を 含めた総称と なっている。

竹内文献には神武天皇以前に世界中を統制支配していた天皇の系譜が記載されてお り、それら 古史古伝には天皇に教えを乞いに訪れたモーゼやキリストの奇譚も含ま れているという。

それらの奇譚は「竹内文書」の信奉者が書を元に「天津教」を興した竹内巨麿に接近 すること で増幅され、各種の奇譚が上塗りされていくこととなった。例えばキリス トの墓、 モーゼの墓そしてピラミッドの存在などである。やがて元々富山県に存在 した天津教の皇祖皇太神宮は 竹内家が南朝の公家の落胤で南朝派であったために荒 廃してしまったという。その南朝の後胤 であることから、竹内家には後醍醐天皇の 遺物なども御神宝として伝わっていたという。

そのような経緯から、キリストの墓やピラミッドの発見に訪れた青森県新郷村で長慶 天皇の御陵墓の発見にも関与したのは、必然であったのだろう。

しかし昭和初期の段階で竹内巨麿と天津教は政治的な関わりを持つようになり、やが て政府から弾圧を受けるようになった。

現在、「竹内文書」類は偽書・偽作とされており、「古事記」「日本書紀」より古い 超古代の書 という評価はされていない。しかしこのような書や器物類が大きな影響 力を持っていた事は 歴史上の事実であるから、その何故?を考えることは大切だと 思う。ひょっとしたら 昭和初期の頃には「竹内巨麿」という名前や「竹内文書」と いう名前は信奉者でなくとも皆が耳にした ことがあったかもしれない。しかし今日 で知っている人はマイナーとなっているだろう。

しかし歴史を振り返る時、多くの偽書が生まれた江戸時代〜太平洋戦争期までの歴史 の中で 重要な思想史の一つではなかろうか。

なお、この「竹内文書」は「美作後南朝」の天皇家が奪われた御信書ではあなかろう か、という 記述が「美作天皇記(原三正氏著;おかやま同郷社のP.157)」に書か れている。偽 書の名前を出すことで美作(岡山県)に南朝の隠れ天皇家が江戸時代 まで存在したという説が揺 らいでしまうのがロマン的には残念だ。

上写真;御皇城山皇祖皇太神宮の拝殿と御本殿(富山市金屋)

「皇祖皇太神宮」。
あれ? と思い易い名前だ。皇祖? つまり皇祖神は周知のように 天照坐皇大御神 (天照大神) で、お祀りするのは 伊勢の神宮さんの内宮(皇大神宮)である。

添付写真は富山。富山市金屋の山中である。

看板には「御皇城山(おみじろやま)皇祖皇太神宮」と書かれているが、伊勢の神宮 とは関係ない。

似た名前で紛らわしい。名前からして紛らわしから、この前の戦争の前には不敬罪で ここの教祖が検挙、 弾圧されている。

昭和の戦前の祭主は竹内巨麿で、天津教という新興宗教であったが、主張では皇祖皇 太神宮は地球全土の首都が 現・富山市に存在しそこの中心たる神殿を再興したものだと云う。 天津教では神武天皇以前の太古天皇が祭主を務め、全世界を天空浮舟に乗って移動し て巡行していたという。

モーゼや釈迦やキリストも教義を学びに、皇祖皇太神宮に来日していたという。この 説から日本にはモーゼの墓( 石川県)、釈迦の墓・キリストの墓(青森県)が存在することになる。 この説では戦前の八絋一宇(はっこういちう;天皇総帝論)に歓迎されそうだが、天 照大神を皇祖神とし神武天皇を 初代天皇とする『記・紀』の世界観を皇国史観とする軍部にとっては、それ以前に太 古の天皇や王朝が続いていたとする 天津教の教義は受け入れがたいものであったのだ。

教義が書かれた文献『竹内文書』では天地開闢の時に神が降ってきたのは、この御皇 神山であり、人類発祥の地という ことになっている。そして『記紀』の初代天皇となっている神武天皇の父である ウ ガヤフキアエズは襲名されており、 73代が襲名しているという。

南北朝時代、皇祖皇太神宮は南朝の拠点となり長慶天皇をかくまったりしたため幕府 に徹底的に弾圧されて、やむなく 神宝や記録古文書を地中に埋めて隠した。やがて皇祖皇太神宮は衰退して忘れられた が、明治25(1892)年になって ここの祭主の家系であった竹内巨麿は竹内家伝来の皇祖皇太神宮の秘宝類を掘り出し 受け継ぎ、茨城県北茨城市に 皇祖皇太神宮を再建した。つまり現在、富山市に鎮座する皇祖皇太神宮はかつて地球 の、人類の発祥の地である元宮 とうことになる。

上写真;日枝神社(富山市久郷)

添付写真は 富山市久郷の 日枝神社 拝殿である。小さな集落で、Google Earth など で事前に詳細に この地域を見たが、存在するお社は この日枝神社だけであった。

久郷を探訪したのには訳がある。竹内巨麿の出身地が、この久郷だからだ(というこ とだが)。

「竹内文書」によると 神武天皇が神倭朝を開くまで太古の歴代天皇は、この地に都 をおいて黄金造りの豪壮 な神殿を構えていたという。その神殿こそが皇祖皇太神宮であるが、南北朝の動乱や 戦国期の混乱で衰退、ついには 宝永7(1710)年の神通川の氾濫によって皇祖皇太神宮は跡形も無く消えたのだという。

ということは現在、御皇城山に鎮座する皇祖皇太神宮は、竹内巨麿が明治43(1910) 年に茨城県北茨城市磯原町 に天津教・皇祖皇太神宮として再建した時に、元宮として創建したのかもしれない (不明だが)。

その竹内巨麿は この久郷の出身で、皇祖皇太神宮の秘宝類を守ってきた竹内家は久 郷の赤池大明神の神官か 宮守の家系だったという。その赤池大明神なるお社は現在、久郷に存在しない。ある いは久郷唯一のお社で ある添付写真の日枝神社が現在の姿ではないかと思ったのだが、何一つヒントは残っ ていなかった。

巨麿は竹内家に養子で入ったが、自身は庭田伯爵家の落胤と称していた。そして養父 は南朝忠臣の末裔で、 南朝の宝物は養父から受け継いだのだという。

上写真;神通川(富山市)

富山市の東側「神通川」の堤防での撮影で、富山市と立山連峰が見えている。 河川の名前が、何だか神懸っている。Wiki で見るとコピペになるが、下記の様に記 載されている 「神通川という名前の由来については大まかに2つの説がある。川を挟んで鵜坂神社 の神と多久比禮志神社 (塩宮)の神が交遊されていたので、神が通られた川 という意味から神通川と呼ば れた。

太古の昔、神々が飛騨の船津から乗船し、越中の笹津に着船されたことから神通川と 呼ばれた。

神通力に由来するという説があるが、確実なものではない。一方、岐阜県内の「宮 川」という名前はこの川の源流付近 に飛騨国の一宮である水無神社があることに由来する。」
(以上)

上記にあるように、「神通川」は源流の高山市(岐阜県)では「宮川」と呼ばれている。

しかし現・富山市久郷に鎮座していたという《皇祖皇太神宮》が地球の、そして人類 の発祥の地で太古天皇がそこを 拠点として全世界を統治していたとする 偽書の古史古伝である【竹内文書】では、 「神通川」の説明が下記のように なっているようだ(※)

「皇祖皇太神宮がいったん天変地異で壊滅した際、天皇は飛騨の位山に避難した。そ して皇祖皇太神宮再建後に 天皇自らが祭主となり 素戔嗚月弓命を副祭主として再勧請の儀式を行った。この祭 祀のため天皇が船で下ったこと から、その川の名前が神通川になった」
(以上)

のだという。何となく納得できてしまう説ではないか。 偽書である【竹内文献】であるが、その偽書の発祥の地には偶然だろうが説を裏付け るような地形上の名前が存在したり するのが面白い。

(※)「偽書が描いた日本の超古代史」原田実氏著

上写真;モーゼの墓の有る宝達山をバックに走る臨時列車「冬の北陸ときめき号」
1990年02月10日の撮影。1988〜1991年の2月に運転された特別列車である。


上写真3枚;モーゼの墓(石川県羽咋郡宝達志水町)「モーゼパーク」

モーゼがその地に来臨したとの原典は、今では偽書と確定している【竹内文献】に よっている。

戦前(応仁の乱ではなく、太平洋戦争)において、同書は政界や軍部にも大きな影響 を与えたというから、 真書と思われていたということだろう。ゆえに多くの信奉的思想家が【竹内文献】の 解釈を発展させてきた。

書物【キリストは日本で死んでいる(光は東方より)】を発行した 、山根キク氏も そうであった。

Google 検索すると 山根キク氏は 1893年生まれ1965年没で、考古学 歴史ジャーナリ スト 、社会活動家、 政治家ということになっている。同書物には、宝達山の 三ツ塚古墳がモーゼとその 妻と孫の墓であると、 記載されている。同書から、何カ所か抜粋してみる、、、

「モーゼの十戒こそ 我が天皇より頂戴した法律」「天皇は殊の外、お喜びになり、 大室姫を彼モーゼに賜って」 「モーゼの妃となられた大室姫は(中略)ローマに御渡りになったので、御名をロー マ姫と改められたが、 最後はモーゼと共に日本に帰り、能登の宝達に住居われて、ここで亡くなられた」 本当に山根氏は 豊かな想像力と、独創力と云えよう、、。

ところで本の表題のように キリストが日本で亡くなったというのなら、御墓も有 る、、、そぅ、御墓は青森県に 存在している。キリストの御墓を「発見」したのは、やはり【竹内文献】と竹内巨麿 の思想的共鳴者である 鳥谷幡山(1876〜1966年)という青森県人であった。

モーゼの墓には墓石だろう自然石、その右に「モーゼ大聖主之霊位」と記された卒塔婆。

モーゼの墓についての『竹内文献』は 天津教という、主に大正時代から太平洋戦争 前にかけて活況を呈した新興宗教の 神宝とされた文書や文献の総称である。教祖は竹内巨麿(たけうちきよまろ:1875? 〜1965年)で、その竹内家に 代々伝わった文献類だという。

内容は神々の系譜であり、『記紀』の現される遙か昔、800億年も前の皇室の祖先か ら始められている。それが 武烈天皇2年(西暦500年頃)に宮中から出されて神代文字の文が漢字かな混じり文 に書き改められて、 それが竹内家で書写されてきたのだという。

竹内巨麿の興した天津教によると、神武天皇以前の太古天皇が天空浮舟によって全世 界を巡航し支配し、モーゼ、 釈迦、孔子、マホメットにキリストも来日して、天津教で学んだという。しかし度重 なる天変地異で太古日本 (『記紀』以前のということか)は衰微し、その歴史は失われたのだという。

現代人からするとほとんど冗談と思える主張も、戦前の軍部や政界の一部の人々の熱 烈な支持を受けたという。 「神代は日本の天皇が世界を支配していた」という優越性が高揚心を煽ったからであろう。

それだけでなく『竹内文献』は酒井軍勝や山根キクなど信奉的思想家と融合すること で、思わぬ展開をみせた。

モーゼの墓やキリストの墓の場所の比定である。

「モーゼの墓」は、平成の村おこしの頃に『竹内文献』に目を付けた地域の人によっ て整備された場所である。 つまり、、、はっきり言うまでもないかもしれないが、『竹内文献』は『古事記、日 本書紀』以前の書ではなく、 昭和になって古文書を偽って書かれた「偽書」である。

「偽書」と知ってか知らずか、戦闘心と愛国心を鼓舞された太平洋戦争以前の『竹内 文献』の立ち位置は、危険な書 であった。しかし平成においては『町起こし』の書という立ち位置に変化したのだ。 ただし「モーゼの墓」が『竹内文献』という『偽書』に出典が有るということが忘れ られてしまうと、「モーゼの墓」 も昔からの正史的伝承の一部に衣替えしてしまう危険性が出て来るのだ(まず無いけど)。

上写真2枚;キリストの墓(青森県三戸郡新郷村戸来)

添付写真の十字架はイエス・キリストの弟(!?)である イスキリの墓である「十代 塚」、そしてキリストの墓である 「十来塚」。

なぜ青森県新郷村に『キリストの墓』や『ピラミッド』が存在するのか?  それに は5人の名前を挙げなくては ならない。その5人が複雑に絡み合い、それらの奇譚が作られたのだ。

時は 昭和10(1935)年の前後である、、、まず 竹内巨麿。今では偽書の烙印を押さ れた「竹内文書」 の保持者で、皇祖皇大神宮第66代管主を名乗る超国家神道宮司でもあった。「竹内文 書」は「古事記」より200年も 昔に神代文字で書かれた所謂「古史古伝」の文書とされていた。

二番目に地元、青森県出身の画家にして郷土史家であった鳥谷幡山。彼こそが 竹内 巨麿や次に記す 酒井勝軍を担ぎ 上げてきた張本人である。

三番目の酒井勝軍は、日本にピラミッドが存在すると主張して全国を探し歩いたピラ ミッドの権威にして日ユ同祖論者であった。

四番目に新郷村の村長 佐々木伝次郎。昭和10(1935)年、国が十和田湖周辺を国立 公園に指定したことで観光客誘致 準備を行っていたが、新郷村は指定地区から外れてしまった。そこで何か対策が有る かと話を鳥谷幡山に持ちかけた。 それが全ての発端であった。

五番目は、山根キク。竹内巨麿と「竹内文書」の信奉者にしてクリスチャンであった 女史は「キリストの墓」だけでなく 近隣に「エデンの園」が存在すると主張を発表した。石川県羽咋郡宝達町にある 「モーゼの墓」など 聖者来日伝承の 宣伝塔的な人物であった。

昭和9(1934)年、鳥谷幡山は 新郷村戸来の大石神巨石群をピラミッドと思い、当時 のピラミッド権威であった酒井勝軍 を招いて「大石神ピラミッド」と名付けた。

昭和10(1935)年、村長の佐々木から観光の目玉を求められた鳥谷幡山は当時の時の 人でもあった竹内巨磨の「 竹内文書」にピラミッドに関する記載が有ったことから、権威付けと認定に竹内巨麿 を新郷村に招いた。

竹内と鳥谷そして村長の佐々木は大石神巨石群(ピラミッド)を視察後、戸来村の二 つの塚を訪れた。

南朝の「皇子の址」と言われていた塚であるが、ここで竹内巨麿は こここそキリス トの墓であるから「十来塚」と名付 け、もう一つは ゴルゴダの丘でキリストの身代わりとなって磔になった弟のイスキ リの塚だから「十代塚」と名付ける ように、と主張した。

何も無かった村に突然、キリストの伝説が生まれたのだ。村長や村は この話に飛び 付き、新郷村は「キリストの里」と なったのである。以来、新郷村の戸来という地区の戸来とはヘブライが訛ったとか、 驚く説が多々発生する。 その二年後、つまり昭和12(1937)年には聖者来日伝承説を「竹内文書」に基づいて 唱える 山根キク氏によって戸来村 迷ヶ平は人類発祥の地、エデンの園であるとして新郷村のキリスト伝承が拡散して更 に有名になった。

以来、青森県新郷村は今日でも「キリスト」と「ピラミッド」が売りの村となっている。

上写真2枚;大石神ピラミッド(青森県三戸郡新郷村戸来雨池)

「大石神ピラミッド」と現在呼ばれている巨石群は昭和初期までは雨乞いの祭祀場 だったそうだ( 「キリスト伝承館」による)。住所の雨池という名前に、雨乞いの名残が残っている。

それが昭和9(1934)年に地元画家にして郷土史家の鳥谷幡山氏がピラミッド研究家 の酒井勝軍を招き、 その翌年に超国家神道家の竹内巨麿が新郷村を訪れてから、雨乞いの祭祀場は古代の ピラミッドに 変貌したのである。

そもそもピラミッドと聞けば普通はエジプトのピラミッドを思い浮かべるが、そのエ ジプトのピラミッドの 元祖は日本に有る、というのが 酒井勝軍らの説だ。

つまり太陽信仰の祭祀場であり、そのための太陽や星の観測装置たる巨石が存在する のが最大の条件で、それらが 自然の山つまり神奈備山(三角形の山)を半分は利用しながら人工的に組み合わされ た所謂、祭祀の神殿が ピラミッドであるというのだ。エジプトでは日本のピラミッドを模倣しながらも平地 で山が無いため人工的 に石を組み上げて神奈備山(三角形の山)を作り上げたというのだ。

この説は、キリストも釈迦もマホメットも「古事記・日本書紀」以前の日本の天皇に 学びに来た、という聖者来日伝承 にリンクして 日本の皇室(神武天皇以前の)至上思想に到達する考え方から出てい るのだろう。

ピラミッドという語だが、竹内巨麿は「日来神宮」と表記し、竹内巨麿と『竹内文 書』信奉者の山根キクは 「日来御戸」「日来神戸」と表記している。漢字とは当て字でも何となく雰囲気が伝 わるから面白いものだ。

上写真;「エデンの園」方面を新郷村から望む。
竹内巨麿氏信奉者の山根キク氏は、キリストの墓が有るならエデンの園も有るだろ う、と十和田市迷ヶ平周辺を エデンの園と考えた。

上写真;青森県三戸郡新郷村崩の三婆羅塚(長慶天皇御陵墓)

青森県新郷村は面白い場所だ。「イエス・キリストの墓」や「ピラミッド」が有る。
それだけではない。

南朝(吉野朝)第三代天皇である「長慶天皇御陵(三婆羅塚)」も有るから、 X-Files のテンコ盛りだ。

長慶天皇御陵(三婆羅塚)が有るのは 新郷村 崩という場所で、キリストの墓から約 5Km、車で 8分の山中の集落内である。地名や長慶天皇の由来が怪しく楽しい、、、

集落全体でも8世帯しかなく、全世帯の苗字が「崩」さんだ。

この地は長慶天皇が崩御した土地で、その御陵の墓守に崩という苗字を与えたのだと いう。

その由来話は 昭和10(1935)年ころに「ある文書」を元に国の役人が調査に訪れ、 長慶天皇がこの地で崩御 したと伝えたのだという。それまで集落では 高貴な人の墓とは伝え聞いていたが、 それ以来 長慶天皇陵墓と 認識するようになったという。

確かに長慶天皇の御陵を決定するために 昭和10年に国の「臨時陵墓調査委員会」が 設置されているので、 国の役人が崩の地を訪れた可能性は有るかもしれない。

しかしその委員会委員が「ある文書」を元に、崩の円墳が長慶天皇陵墓と伝えた可能 性は全く無い。なぜなら 宮内庁が定めた長慶天皇陵墓は京都の嵯峨野に治定されたからである。とすれば「文 書」を持って訪れたのは、 「竹内文書」の竹内巨麿であった可能性も有る。

竹内巨麿が認定しながらキリストの墓ほどポピュラーにならなかったのは残念ながら キリストと長慶天皇の 知名度の違いだろうか。。。

上写真;参考文献


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Last Updated  2023-05-07