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No.K-1-3 リヒャルト・ワーグナー 逃走 2014 / 2015年
Nr.K-1-3 Der Komponist Richard Wagner Flucht , Photo im Jahre 2014/2015 |
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三光氏の著書(「ワーグナー」平凡社)の言葉を借りれば、「ワーグナーの生涯は逃亡の連続」ということになる。
あれほどの大曲を作曲し、当時と後世に偉大な業績を残した大作曲家が「逃亡の連続」とは意外であるかもしれない。事実、ワーグナーのように一カ所に定住することなく各国各地を転々としながら“逃げまくっていた”人物は、当時の人物の移動距離からしたら異常であったろう。高速鉄道網も飛行機も無くレジャーも希薄な時代、一般庶民の移動は殆ど無かったであろう。ワーグナーの逃亡の理由は様々であるが、大きく分けて3つになる。借金取りから逃げる夜逃げ型、警察から逃げる政治犯型、スキャンダルから逃げる炎上型(?)である。 このページでは、ワーグナーの逃亡史のごく一部であるが、UPしてみた。 |
ワーグナーは1836年11月24日、ケーニッヒスベルクでミンナ・ブラーナーと結婚した。その地の音楽監督のポストに就いたのだが、劇場は経営難に陥った。1837年、ワーグナーはミンナと共にリガ(現在のラトビア共和国)へ移り住み、音楽監督となった。初年度に15曲、翌年には24曲のオペラを指揮し、オペラ「リエンツィ」の作曲にも取り掛かった。しかし膨れ上がった借金から逃れるために、ミンナと愛犬を連れて夜逃げ同然にリガを脱出した。陸路で東プロイセンのケーニッヒスベルクまで来ると、海路でパリに向かおうとした。乗った商船は小船で、嵐の海で難破同然となりながらロンドンに上陸した。 ワーグナーはリガを脱出後、陸路だけでなく海路もとった。拙者が乗った飛行機は、ワーグナーが難破しそうになった海上を飛行し続けた。 |
ヴァルトブルク(Wartburg)はこちら |
ケムニッツは1949年、DDR ( Deutche Demokuratische Republik ; ドイツ民主共和国 = 東ドイツ) がソビエト占領下で建国した後の1953年に Karl Marx- Stadt と改名された。そして1990年、東西ドイツ統一後、再び昔のケムニッツという地名に戻った。 レニングラード(レーニン グラード)と並び、社会主義思想家の名前が付いた町であった。現在も町の中心部には東ドイツという社会主義国の名残である巨大なカール・マルクス像が鎮座している。 この町は、ワーグナーの逃亡の生死を分けた町であった。1849年5月3日、ドレスデンで国民議会が新憲法を制定する動きに、プロイセン軍をあてにした反動内閣が議会の解散を敢行したことで、両派の武力衝突が起こった。ドレスデン革命と称する衝突で、この時にワーグナーは革命家バクーニンらの元で暴動に加担した。実際にワーグナーがどの程度の加担をしたかは諸説あるが、何しろ時の宮廷楽長が革命軍に参加したものだから目立った。ゆえにワーグナーはお尋ね者となって指名手配されることとなった。捕らえられれば処刑される恐怖から、ワーグナーはドレスデンから逃走する。ワーグナーは革命に参加したお尋ね者仲間と馬車でフライブルクを経てケムニッツに逃げることにした。が、仲間と合流する手違いで後から出発することとなった。それが幸いし、先行した革命家は逮捕されて死刑判決が下るが、その逮捕劇の間にワーグナーは逃げることができた。僅かなことで生死を分けたのが、ケムニッツであった。 そのケムニッツが東ドイツ時代にドイツ人社会主義思想家カール・マルクスの名前を戴いた町となり、シンボルにマルクス像が建てられた。社会主義政権の崩壊でかつての革命家の像が破壊される例も有るようだが、今なお残っているのは巨大すぎるためだろうか。 さてそのカール・マルクス(1818年〜1883年)とリヒャルト・ワーグナー(1813年〜1883年)は同時代の人物なのだが、両者に接点は無い。ワーグナーがドレスデン革命に参加した1849年の前年にはマルクス=エンゲルスによる『共産党宣言』が発行されているが、そんな時代だった。すなわちそれまでの貴族封建主義からブルジョアジーとプロレタリアが突き抜けるように成長し、共に貴族封建性を打破すべく闘っていた両者が搾取する側とされる側に分離しつつある時代だったのだ。マルクス=エンゲルスが唱えた“科学的社会主義”という理論的な構築に比べて、ワーグナーが参加したドレスデン革命で中核となった思想家バクーニンは無政府主義者であって、漠然とした論であったようだ。ワーグナーの大曲である舞台祝祭劇『ニーベルンクの指輪』が貨幣(金)への魅力から人も神々をも巻き込んで世界が炎上崩壊していくさまを、資本主義崩壊の姿になぞらえて演出されるケースもある。しかしワーグナー自身が資本主義崩壊後の社会主義とマルクス=エンゲルスの科学的社会主義理論の影響を受けた痕跡は無い。ワーグナー自身の思考による創作なのである。ワーグナー自身が若いころのパリで赤貧生活を送って、貨幣経済に作品をも飲み込まれていく姿に焦りを感じていても、現実にはブルジョアジーや国王の援助なしにはバイロイトの実現も不可能であった。仮にマルクスがワーグナーと出会っても、相通じるものは無かったであろう。 ワーグナーの運命を分けた町にマルクス像、なんとも面白い。 上写真はカール・マルクス像。下写真は、ケムニッツ歌劇場(左側)、右側はペトリ教会。 |
1849年5月16日、ドレスデン市警警察本部からワーグナーの指名手配が発効された。ワーグナーはバイエルンを乗合馬車で通過し、5月27日にボーデン湖畔のリンダウ(Lindau)に到着した。翌日、汽船で対岸のスイス領ロールシャッハに渡り、急行馬車に乗り換えて同日夕刻、チューリヒに到着した。 ワーグナーはドイツ脱出とスイス入国に際し、期限切れの(偽)旅券を購入して偽名で逃避した。リンダウ市門で旅券を翌朝まで一時預けで検査を受けたが、無事に通過した。きっとリンダウ港のこの夜景をワーグナーは不安な気持ちで眺めたことだろう。 ボーデン湖の湾の左側にライオン像、右側に新灯台がみえている。ボーデン湖はドイツ・オーストリア・スイスにまたがる湖で、それぞれの間に国際航路が有る。 |
リヒャルト・ワーグナーはチューリッヒにヴェーゼンドンク家の好意で邸宅に住まい するも、家主オットーの妻であるマチルデとの不倫露見で、1858年にはその家を去る こととなる。ヴェネチアへ逃亡するのだが、そこでは8か月間滞在し、またスイスに 戻る。ただしチューリッヒへは寄れず、ルツェルンのシュヴァイツアー・ホフに半年 間滞在した。以降、パリ滞在をして1861年5月13日には「タンホイザー」のパリ初演 を行う。が、演奏は妨害され、スキャンダルまみれとなってパリから逃走した。そし て1862年には恩赦によって追われていたドレスデンに立ち寄ることができた。その後 は各地を演奏旅行して、オーストリアはウィ−ンに滞在することとなる。ウィ−ンで は1861年から「トリスタンとイゾルデ」の稽古が始まっていた。1863年5月、ウィー ン郊外に豪華な邸宅を借りると上流社会との交流で演奏旅行で得た金を湯水のように 使い果たし、はては借金まみれとなった。1864年3月、トリスタンは77回ものリハー サルの後に“上演不可能”な難曲とされた。演奏の見込みが無いと分かると、借金取 りがリヒャルトに殺到した。リヒャルトに残された手は唯一、逃亡である。1864年3 月23日、リヒャルトは女装してウィーンから逃走した。女装するとは、恥も外聞もか なぐり捨てた姿だ。そのリヒャルトを追いかける一人の男が居た。フランツ・ゼラー フ・フォン・プフィスターマイスター、すなわちルートヴィヒ�鏡い了伴圓任△襦�バ イエルン王となった若きルートヴィヒ�鏡い�就任後、最初にしたことがリヒャルト・ ワーグナーを呼び寄せる命令だったという。ワーグナーの音楽に心酔した若き王は、 全面的な援助を与えるべく、リヒャルト・ワーグナーを探していたのだ。てっきり借 金取りに追われているとばかり思ったリヒャルトは、必死で逃げる逃げる、、、。 が、ついにシュトゥットガルトで追いつかれてしまう。借金を返せるアテの無かった リヒャルトは、観念するしかなかった。しかし借金取りではなかった! リヒャル ト・ワーグナーは やはり運を“持っている”男だったのだ。 プフィスターマイスターがリヒャルトを捕捉したのは、シュトゥットガルトのホテ ル・マルクヴァルトにおいてだったという。調べたが現在、このホテルは現存してい ないようだ。よって写真はシュトゥットガルトのDB(Deutsche Bahn) の駅をUPした。 |
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Last Updated 2017-07-07