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No.K-1-16 作曲家リヒャルト・ワーグナー 、 ルートヴィヒII世と(4) 2017年撮影
Nr.K-1-16 Der Komponist Richard Wagner mit Ludwig II. (4) , Photo im Jahre 2017 |
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リヒャルト・ワーグナーのミュンヒェン時代の住居。 2017年4月29日 撮影。 Richard Wagner は 1864年5月4日に ルートヴィヒ�鏡い両傑曚妊潺絅鵐劵Д鵑砲笋辰突茲拭� そして政府のみならず市民の批判反感でミュンヘンに留まれなくなって、1865年12月10日にスイスへ脱出する。その1年半の間、ミュンヘンでは2カ所の住居に滞在した。 シュタルンベルク湖畔のケンプフェンハウゼンのペレット荘、そして市内ブリエンナー通りの住居である。 ペレット荘はミュンヘン市街から南西に30Kmのシュタルンベルク湖畔にある。ペレット荘のあるケンプフェンハウゼンには鉄道の駅は無く、バスかタクシーで行くことになる。今回はDB(ドイツ鉄道)の列車で Starnberg まで乗車。そこからタクシーで移動。ペレット荘で10分ほど待ってもらってからベルク城まで移動。タクシーはそこで乗り捨てし、復路はバスで Starnberg Nord まで乗車し、DB の列車でミュンヒェン中央駅に戻った。 ペレット荘はミュンヒェン郊外であったが、次は1864年10月12日からミュンヒェン脱出の1865年12月10日まで住んだブリエンナー通りの家は、ミュンヒェン中央駅から1.5Kmくらいの場所と、市街地である。ミュンヒェン中央駅に隣接した InterCity Hotel に泊まっていたので、早朝のまだ暗い内にホテルを抜け出して徒歩で撮影に行ってきた。 |
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■ VILLA PELLET、 Kempfenhausen 当時の建物は改装されているが、残っている。 スマホに当時の写真を写して持参した。当時の写真は、『図説 ワーグナーの生涯』 (ヴォルター・ハンゼン著、小林俊明訳;アルファベータ社刊)の掲載写真である。 WAGNER HAUS EHEMALIGE VILLA PELLET HIER FAND RICHARD WAGNER VON 14.MAI BIS 3.OKTBER 1864 ALS GAST KöNIG LUDWIG ��. EIN ERSTES ZU HAUSE IN BAYERN ES WAR DER BENINN DER GROSSZuGIGEN FöDERUNG WAGNER DURCH DEN BAYERNKöNIG 1886 KöNIG-Ludwig JAHR 1986 (ワーグナー宅。元ペレット荘 1864年5月14日から10月3日に在。 バイエルンにおける最初の家。 バイエルン王ルートヴィヒの寛大なる助成の始まりであった。 1886−1986年 ルートヴィヒ記念) ここでの滞在中、作曲は王の誕生日の1864年8月25日に『忠誠行進曲】を謹呈したくらいである。大ファンだったワーグナーを招聘でき、ベルク城近辺に住まわせたことで、王は頻繁に城にワーグナーを招待したり文通をしたことで、落ち着いて作曲ができなかったのかもしれない。ただ、6月29日にはコジマがビューローとの娘2人を連れてペレット荘を訪れて滞在し、2人の関係が決定的になっている。 1864年8月25日、ホーエンシュヴァンガウ城にてルートヴィヒ�鏡い�19歳の誕生日を祝う。 |
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■ Brienner Straße 37(21 ※) ※「ワーグナー事典(東京書籍)」P.779には 番地が21番と記載されている。 当時は21番地だった可能性があるが、番地の呼称が変わったのか現在の番地では37番である。 ワーグナー宅は跡形もない。スマホにはペレット荘の項と同様、書籍に掲載された当時の写真を入れて持参した。 HIER WOHNTE RICHARD WAGNER VON 12.OKT 1864 BIS 10.DEZ 1865 IN EINER GAR TENVILLA AUF DEM JETZIGEN SCHULGELANDE. (ここにリヒャルト・ワーグナーが 1864年10月12日から1865年12月10日の間、住んだ。現在の校内である。) ケンプフェンハウゼンはシュタルンベルク湖畔で自然環境が良いものの、演奏会の開催に不便だったり政府へ睨みを効かす(!)のに中央から遠かったからだろう。ワーグナーはミュンヒェン市内に住居を構えた。このブリエンナー通りの住居に居を構えてからのワーグナーは、積極的に活動した。 引っ越した10月、宮廷秘書官との間に「十か条の契約」が結ばれた。すなわち、3年以内に『指環』を完成させる義務と引き換えに3万グルテンを受け取る、など。 1864年12月4日、『オランダ人』のワーグナー指揮によるミュンヒェン初演。 1865年3月5日、『タンホイザー』ミュンヒェン初演。 4月10日、コジマとの間に最初の娘であるイゾルデ誕生。この時、コジマの夫のビューローは『トリスタンとイゾルデ』の初演に向けてリハーサル中であった。 5月15日、『トリスタン』の初演予定が延期され、6月10日に開催された。 1865年10月11日、政府のプフィスターマイスターと絶交。市民に反ワーグナー感情高まる。 1865年11月11日〜18日の一週間、ホーエンシュヴァンガウ城に滞在。 1865年12月1日、内閣プフォルテンは王に、市民かワーグナーの二者択一を迫る。 1865年12月2日、『ジークフリート』第二幕総譜草稿完成。 1865年12月6日、内閣は王に、ワーグナーを追放しなければ退陣すると迫る。政変を恐れた王は、ワーグナーに暫しのバイエルンからの退去を命じる。 1865年12月10日、ワーグナーはミュンヒェンを離れてスイスに向かう。 |
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Last Updated 2017-07-31