No.K-6 作曲家 (ハンブルク) 2016年
Nr.K-6 Der Komponist in Hamburg im Jahre 2016 |
■ 2016年5月1日 撮影
■ グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)
1891年4月、マーラーはハンブルク歌劇場の第一楽長に就任し、ハンブルクに移り住んだ。以来1897年までの6年間をハンブルクを本拠地に活動することとなった。CD になった演奏は、ブタペストで初演された稿(第1稿)をハンブルクでの演奏のために改訂した稿(第2稿のうちハンブルク稿)であるが、構成の変化は無く、5楽章形式であった。通常、我々がよく耳にするのは1896年3月にベルリンで演奏されるために改訂された第3稿でる。ここでは第2楽章「花の章」が削除されるなど、大胆な変更を行って「交響曲」という扱いとなった。 CDはハンブルクの北ドイツ放送交響楽団がトーマス・ヘルゲンブロックの指揮によって録音された演奏で、演奏は素晴らしいが曲は荒削り感がする内容である。 |
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上写真左右; マーラーが1892年に住んだ家。銘板には「 IN DIESEM HAUSE WOHNTE IN JAHRE 1892」とある。 チャイコフスキーのオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を行った年である。この家でチャイコフスキーの楽譜を勉強したのだろう。 |
![]() ![]() 1891年4月から6年間、1897年にウィーン宮廷歌劇場の第一楽長に就任するまで、ハンブルク歌劇場で活躍した。歌劇場外壁にマーラーのレリーフがある。銘板には「CHEFDIRIGENT DER HAMBURGER OPER 」とある。ただし歌劇場の建物は第二次大戦によって破壊されたので、現在の建物は1955年に再建された歌劇場である。ハンブルク国立歌劇場の客席の写真は、 ワーグナー作曲『トリスタンとイゾルデ』を聴いた時の撮影(演奏中は撮影せず)。 |
■ ヨハネス・ブラームス(Johanes Brams)
(1833年5月7日生、ハンブルク〜1897年4月3日没、ウィーン) ブラームスは1833年5月7日にハンブルクで生まれ、1897年4月3日にウィーンで没している。 父親は市民劇場のコントラバス奏者で、彼から音楽的学習を受け、本人はピアノにおいて早くから才能を発揮したという。20歳前後の頃にシューマンやリストと知り合うなど、綺羅星のような交友関係ができあがっていく。ロベルト・シューマンは1854年にライン河に投身自殺を試みてから病院入りし、1856年のロベルト・シューマンは没するが、この頃にはブラームスと交友関係があったそうである。ちなみにブラームス22歳前後で、クララ・シューマンは14歳年上だったという。1896年5月20日にクララ・シューマンは没し、ボンの墓地にロベルトと並んで埋葬されるが、ブラームスはやっと埋葬直前に駆けつけたという。 ブラームスは1862年にウィーンにハンブルクから移っているが、『ドイツ・レクイエム』や4つの交響曲は、そのウィーン時代の作である。 |
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■ フェリクス・メンデルスゾーン
( Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy ) (1809年2月3日生、ハンブルク 〜 1847年11月4日没、ライプツィヒ) ハンブルクに生まれたメンデルスゾーンだが、2歳の時に家族でベルリンに移っている。 生誕地には小さく申し訳なさそうに生誕地であるプレートが掲示されている。 |
![]() @ am Michaelisstrasse 14 |
![]() ![]() ![]() Fanny Hensel (1805年11月14日生、ハンブルク 〜 1847年5月14日没、ベルリン) |
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Last Updated 2016-10-27