日本!(お神楽)
No.14 新野の雪祭り
撮影場所&日;長野県下伊那郡阿南町、伊豆神社、 平成18(2006)年1月14、15日
撮影機材; Nikon D70 +SIGMA10−20mm、 Nikon D70s+SIGMA18−50mm

新野の雪祭の「庭の儀」は、“田楽”だという。それを知った時、田楽という芸能ジャンルが存在しえたことに、大きな驚きがあった。なぜなら世阿弥による夢幻能の確立と、それに続く各地猿楽座の興隆に押されて、いつまでも曲芸の域を出なかった田楽は次第に衰退して消滅したと思っていたからである。
田楽というと思い浮かべるのは、紅蓮の炎に包まれる鎌倉幕府が、田楽囃子の響きの中で終焉を迎えたという歴史的情景です。頼朝の創設した源氏の鎌倉幕府を略奪した平家北条が、源氏の新田義貞による鎌倉攻めで最期を迎える時、北条高時の周りには僅かな兵と白拍子や田楽座員しか残っていなかったという。田楽舞を舞ってから自刃した北条高時の鎌倉幕府最期は、壇ノ浦に散った平家とは違った壮絶さが漂っている。北条高時は田楽座員に、烏天狗の格好で舞わせることもあった。室町時代になり、田楽座は能を舞ったりもしているが、それらの内容は現在の新野の雪祭で演じられる田楽とは大きく異なる演劇性の強い内容であったろう。北条高時が愛した田楽も、その起源においては予祝性の強い“田遊び”的農耕祭祀の要素が強かったらしいが、新野の雪祭では、その起源に近い内容を伝承していることは興味深い。すなわち田楽は稲の豊作を予祝する田遊びに、田んぼの水口を祓う田主と田植えする早乙女の掛け合いの歌舞といった芸能性が加わり、農民に代わって猿楽師が勤めるようになった。その役者は僧体をしていたので、田楽法師と呼ばれたそうである。ここで面白いのは、猿楽師が僧体で舞うことで田楽法師と呼ばれた点です。平安時代末に猿楽師は「乱舞」と「答舞」という芸体で大寺院の法会の後に催される延年の演芸大会において歌舞を見せるのだが、その猿楽師の前身は呪師(のろんじ)と云った。その呪師が密教行法において、法の威力を民衆に示す機会を得て、その中から呪師猿楽の【翁】が誕生した。このように【翁】を演目の核として座を発展させたのが後まで猿楽と云われ、猿楽から分岐して田遊び的農耕祭祀や曲芸に活路を見出したのが田楽といえるのではないでしょうか。“複式夢幻能”という抽象的な夢幻(ゆめまぼろし)の世界を確立した世阿弥の在世においても、田楽は能を演じることがあったのが、その後に衰退したのは、世阿弥の生み出した能の系譜を支持する武将が多かったからでしょう。その衰退したはずの田楽が新野に残っているととしても、それは北条高時が愛した歌舞中心の田楽ではなく、さらに古い農耕的祭祀の田楽なわけです。
あらゆる祭りは“鎮魂”にいきつくと云われますが、農耕祭祀の田遊びや田舞は、「田をできるだけ踏みつけ、その田を掻き均して田に適当な魂をおちつけ、じっとさせておき立派な稲を作る」(折口)ことを目的としています。
ただ、新野の雪祭は田遊びだけでなく、庭(境内)に直立する巨大な松明から、修正会の要素も指摘されてます(井上)。修正会は元は大晦日に鬼追いとして疫鬼や邪気を祓う行事として行なわれていたのですが、平安時代には節分の行事になった密教寺院の祓いの儀式です。おそらく鬼の役も猿楽師が演じたこともあるのかもしれません。その大晦日、罪や穢れが祓われ、異界から神や客神が訪れるため、人々は身を慎みその訪れを待ったのです。年が変わって訪れる神は田の神や歳神であり、村々に降りてきて村人を祝福する祖霊でもあります。井上氏によると、「雪祭の幸法(さいほう)の藁帽子は“やす”の形で、門松や歳神棚に餅などを入れて飾るものと同じ形で、穀霊」とのことです。正月の門松は歳神の降臨する依代ということもあり、その降臨の前に邪気を祓っておこうというわけでしょう。
いづれにせよ「新野の雪祭」は歌舞や曲芸という演劇性の強い要素の加わる前の農耕予祝的な古い田楽の内容を今に残し、さらに種々の民族神や行法を取り込んだ、大変に興味深い祭りであるといえましょう。

≪乱声について≫
夜の儀の始まりは、氏子(消防団員)が庁屋の壁を木の棒で激しく叩いて、「らんじょう!らんじょう!」と叫んで始まります。私は舞楽において、『乱声』という楽章があることに注目しました。舞楽で乱声は、笛・太鼓と鉦鼓による無拍節の曲で、舞の中心となる『当曲』の前後に舞人が登・退場する場合に奏されます。『乱声』のうち、『小乱声』は前奏曲のようなものであり、続く『乱声(乱序)』で舞人は舞い始めるという構成になっています。すなわち『乱声』は、今から始めるというファンファーレのような曲であり、その曲の名前が雪祭の庭の儀の最初にあることは、大変興味深いことです。雪祭りでは氏子(消防団員)が庁屋の壁を木の棒で激しく叩きながら「乱声!」を叫びますが、大声で喚くから乱声なんでしょうか?私はそうではないと思います。乱れた声を上げるなら、ウオ〜でもワァ〜でも良いはずですから、“乱声”という語に意味があるのだと思います。この場には舞楽の管方の楽人さんはいらっしゃらないわけですが、始まりを舞楽の楽章名を使って「乱声!」と知らせているのではないかと思います。むろん、それは私の想像でしかありませんが。呪術的には壁を叩いて音を出すことは、魔障退散・悪霊鎮撫の所作でしょう。

≪茂登喜(もどき)について≫
茂登喜は幸法の副演出の役割だという。足の蹴り方も幸法の反対で、幸法は踵で歩き、茂登喜は爪先で歩く。幸法の動作を真似ることで意志を強固なものにすると云われても、理解に苦しみました。しかし折口信夫氏の「近代の猿楽に宛ててみるなら、狂言方に当たる」との一文を読み、その役割が納得できました。能において前場・後場の二場構成の場合には、その間に間(アイ)が挟まります。例えば能【野宮】でアイ(狂言)の役割を見てみましょう。前場で旅の僧は里女と出会い、六条御息所と光源氏の話を告げ、自らが御息所の霊であると明かして消えます。そしてアイが嵯峨野の者として登場して、旅僧に第三者の立場から六条御息所と光源氏の逸話を物語ります。それによって観客は前場の理解が深まると同時に、後場への展開の足がかりをつかむことが出来ます。このような例によって狂言=もどき、と考えると、“茂登喜”の存在が分かり易いと思いました。

《参考文献》
【能・狂言1】岩波講座:岩波書店
【能の歴史】小林責、増田正造:平凡社
【雅楽事典】音楽之友社
【雅楽入門】増本伎共子:音楽之友社
【日本の民族宗教】宮家準:講談社学術文庫
【日本芸能史六講】折口信夫:講談社学術文庫
【霜月神楽の祝祭学】井上隆弘:岩田書院
【祭りのふるさと あなん】阿南町教育委員会

≪舞楽の「乱声」の聴けるCD・・・【雅楽/舞楽の世界】東京楽所:COCF-10888 、9≫


■ 神楽殿の儀(17:30〜20:30)
上左右写真、【ピンザサラの舞】、かまぼこ板のような薄い板片を繋いだ楽器で、しならせたり振ったりして音を鳴らします。曲の最後に、「大雪でございます。」と述べ、雪を豊穣の予祝としています。このことが“雪祭”の呼称の元となっています。

上写真三枚、【順の舞】、神降ろしに続いて舞うのですが、神懸かりの舞ではないかと思います。鈴と扇による、華麗な舞です。


■ 本殿の儀(23:00〜01:00)
神事が午後11時から午前0時頃まで続き、そして舞となります。


上右写真、【中啓の舞】、閉じた扇を採り物とした舞です。


■ 庭の儀(夜田楽・庭能)(01:30〜09:00)
上写真中、松明立ては、氏子の消防団員が東西で牽引しつつ持ち上げる、緊張する行事です。

上左写真は、松明に点火するのにロープを張って宝船に火を点けて渡し、燃やします。
上右写真は、【乱声】、上記キャプションを御拝読下さい。

上写真、【幸法(さいほう)】、赤頭布に長い藁冠、五穀の入った玉を付け、手には松と田団扇を持って出ます。九回出入りを繰り返し、六回目には写真のように田楽楽人を従えて出ます。

上左写真、【幸法】、上右【茂登喜(もどき)】、もどきは、上記キャプションをご拝読下さい。

上写真【茂登喜(もどき)】

上左右写真、【競馬(きょうまん)】、馬に乗った騎手2名が、矢をいり天狗(鬼)が持つ木片に当てます。悪霊を退散させる呪術です。

上左右写真、【海道下り】、都から海道を下って、その村を祝福して社を祝う。折口氏は、遠くから来る来訪神であると述べられ、翁のもどきとも云われます。

上写真【天狗(鬼)】、花祭の榊鬼や坂部の鬼のように、禰宜との問答に敗れます。井上氏は、これは悪霊から守護霊への転生と述べられてます。

上写真【八幡】、駒を連れて現れ、その背中を撫でたり呪文を唱えたりしてから跨ります。田畑の害を押し鎮める意図ということです。


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Last Updated  2006-01-22