日本!(お神楽)
No.9 佐陀神能
撮影場所&日;島根県松江市鹿島町、佐太神社、平成17(2005)年9月25日

上左写真、大社造りの三殿が並ぶ佐太神社本殿。上右写真、例祭


里神楽の中でも、“出雲流神楽”というジャンルの神楽は、古事記・日本書紀を題材とした神話劇を舞い、そのルーツとされるお神楽が島根県の佐陀神能と云われています。
そこの佐太神社では古来毎年の「茣蓙替神事」には、御幣や鈴などの採り物を持った舞である「七座の舞」が奉納されていたようです。
慶長年間(1596〜1615)年に、佐太神社の幣主祝(禰宜)・宮川兵部小輔秀行らが都に上京して、当時吉田神社で行なわれていた神事や“大和猿楽(現代の五流能のルーツ)”を学び、それまでの七座の舞に加えて「式三番」や、猿楽の所作を取り込んだ神能を構築したのが、現在に伝わる“佐陀神能”だと云われています。寛永十六(1639)年の文書に、神能が行なわれた記述があることや、寛永末年(1643頃)の銘のある神能面が残存してることから、社伝の佐陀神能創始時期はほぼ間違いないだろうと思われています。
(ここでお断りですが、当時は能とは言わずに猿楽と云ってましたが、以下のキャプションにおいては現代的に五流の能楽を“能”と記載します)
慶長年間ですとまだ徳川幕府開府前ですが、既に豊臣秀吉は観世・宝生・金剛に召抱えの金春流に対して「猿楽配当米制度」を発布して、能楽師を支配下に置いて武家式楽制度の下地を作り始めていました。この時期の能楽の上演様式を詳細には記載できませんが、現在我々が拝見している能に比べて大きな違いが幾つかあります。上演時間が短かったこと、弱吟での謡いであったこと、そしてなによりも鏡板などの現代流の能楽堂という器の無かったこと等々です。しかし本幹においては現代の能と大差無かった、とも思います。その能を佐太神社の禰宜は都で学び、地元に取り入れて『佐陀神“能”』と称しているなら、はたして佐陀神能は“能”なのだろうかという疑問が当然出てきます。
まず現地で『佐陀神能』の解説を宮司さんから聞いて驚いたのは、能の複式能のように前・後場に分かれているという構成です(ここでは前段・後段と称してました)。そして神能を拝見し始めますと、一般的な出雲流神楽では舞人が言葉を発することは稀ですが、ここの佐陀神能では能のシテのように謡もあるから驚きです。
佐陀神能では登場する人物が殆ど神々の世界という異界の住人ですから、五流能の『脇能』に相当します。脇能とは、【翁】の次に舞う神事能という意味です。
能の舞いには、舞事といって、舞いの型自体には具体的な意味が無いにもかかわらず、能の中では中核的な舞があります。神々なら〈真ノ序ノ舞〉〈神舞〉や〈中ノ舞〉等などです。しかしながら佐陀神能には、この舞事が欠如しており、舞の中核を成していたのは能でいうところの働事という舞でした。働事のうちでも〈斬組〉や〈舞働〉という舞で、これは龍神・鬼神など異界の住人でも強い役柄の諸霊の力強い所作で、自ら威勢を示したりワキと決闘する場面に使われる舞です。佐陀神能で当夜に上演された【大社】【日本武】【八重垣】は、いづれも神々の登場とか東夷やオロチとの決闘という演劇的見せ場の多い「風流(ショウという意味)能」でしたから、働事がメインの舞となるわけです。
しかしながらその佐陀神能の舞いの型を詳細に観察しますと、能の舞いの型のような一定の扇の型は見られません。能ですと、〈上げ扇〉〈サシ込み〉〈ヒラキ〉等々の能固有な型があるのです。そして具象的な〈シオリ〉〈クモラス〉等の心情的な面の使いや扇の使いの微妙さもありませんでした。ただし、能とは異なった舞のパターンの反復や運歩などが、佐陀神能には見られました。
神能の前に舞われる【翁】ではUPした写真のように“剣印”で舞ったりしますし、翁面を面箱に収める直前に印を結ぶなど、かなり密教的な能にはない強い呪術性を感じました。そして翁においては、悪霊・地霊鎮めの運歩である反閇(へんばい)が見られたことは興味深いことです。これは佐陀神能の【翁】が古い形の地霊信仰を含有してると思われます。
上記のことから、佐陀神能には現行の能の舞の型をそのまま見出すことは出来ず、独自の舞の型を確立してると思われました。
それは【翁】における呪術性であり、【大社】【日本武】【八重垣】の神能における、風流(ショウ的演劇性)な型であったりします。
能は世阿弥の創意によって、それまでの能と比べて格段に舞と舞台進行において抽象性・象徴性が深淵になってきましたが、世阿弥の父の観阿弥の頃までは、そして世阿弥以降も他の作者では、より演劇性の強い物真似の世界であったとされています。
佐陀神能が佐太神社で創始された頃は前述したように、ある程度現代のような能が確立されていた時代であり、世阿弥の複雑な夢幻能も有ったわけです。にもかかわらず、佐陀神能が世阿弥的ではなく、観阿弥的というか風流・物真似的な舞であることは、これまた面白いことです。物語的に神話の世界を演じるには、世阿弥のような夢幻能を必要としなかったのでしょう。
現在の佐陀神能が、創作された当時の姿を保っているとはむろん不明です。佐陀神能が創作されてから400年の間に、能も変化したように、当然ながら佐陀神能も変化したと考えた方が適切だと思います。そして現在、能とはかけ離れた佐陀神能の舞いの型などが、実は創始当初は能と同一であったのが枝分かれしたのかもしれない、というのも想像の域を出ません。
ですから現在上演されている能と佐陀神能からの結論では、佐陀神能は現行の能の型とは異なり、独自の型を持っていることから、佐陀神能を現在の五流による能と同一視はできません。佐陀神能は演劇性が強い世阿弥的世界の舞ではありませんでしたが、一部において能には見られない強い呪術性が宗教儀礼の影響を感じました。
この結論から佐陀神能は都で能を見たり学んだ佐太神社の禰宜が帰省して、神社での氏子への娯楽として日本神話の世界を面白おかしく能もどきに舞ったのが元々の姿ではないかと推察した次第です。

《参考文献》【舞う】鹿島町立歴史民族資料館発行
【古代出雲と神楽】和久利康一、新泉社
【世阿弥】北川忠彦、中公新書
【能の魅力】中村保雄、淡交社
【能楽事件簿】横浜能楽堂編、岩波書店
【能・狂言機岩波講座、岩波書店


「七座の舞」より【剣舞(けんまい)】
神能成立前からあった舞と云われてます。境内外には屋台が一軒出店してました。

【式三番(しきさんば)】
翁は舞台で着面する。これは憑霊する状態を表わします。
翁は舞楽の左舞の【陵王】【左還城楽】や【散手】のように“剣印”で舞いました。
剣印は星座、月の運行を表わす二十八宿ではないかと思います。
分かりにくいですが、翁面を面箱に収める前に印を結んでいます。
「花祭」で花太夫が鎮めで邪霊・諸霊を鎮めているシーンを連想しました。

【大社(たいしゃ)】
前段:臣下が勅命で佐太大社に下向します。そこで老人に会い、社の縁起と神無月の由来を尋ねます。
後段:先の老人は佐太大神の化身でした。大神は龍神から龍蛇神を受け取ってから、「八百万神の父母は我なり」といって社殿に入ります。


【日本武(やまとだけ)】
前段:日本武命(やまとたける)が東夷征伐の途上、伊勢で倭姫命(やまとひめのみこと)から天叢雲剣と火打石を授かります。
後段:駿河の国で、東夷との闘い。

【八重垣(やえがき)】
前段:須佐ノ男命が櫛名田比売と酒樽を置き、大蛇を待ちます。
後段:大蛇退治。

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Last Updated  2009-12-29