伊賀上野磨崖仏
2004年4月18日、朝の斜光線で写すべく4時50分に出発。途中、東名阪道の工事夜間通行止め(朝6時迄)で一般道に迂回しながらも、朝食休憩をはさんで6時15分には、伊賀上野寺田に到着した。 |
![]() 【寺田毘沙門寺裏奥の院三体地蔵磨崖仏】 |
![]() 【中之瀬磨崖仏】 |
---|
![]() 【花ノ木磨崖仏】 |
![]() 【治田地蔵十王磨崖仏】 |
---|
【寺田毘沙門寺裏奥の院三体地蔵磨崖仏】寺田の集落から毘沙門寺に入って、境内や墓地を探したが見つからなかった。寺への入り口手前50m程の所に右手へ入る細い道があり、そこから80m くらいの山間に安座されていた。三体の地蔵が同時に彫られているのは珍しいらしく、鎌倉時代後期〜室町時代初期のころの作ということである。高さ140Cm幅350Cm奥行き240Cmの花崗岩の自然石に、縦横70X136Cmの枠を掘り込み、そこに像高36Cm台座の高さ24Cmの三体地蔵菩薩磨崖仏である。写真では水平に写しているが、実際は右下がりに傾斜している。700年の時間経過の間に傾いたのであろう。 【中之瀬磨崖仏】中瀬ICを出て、荒木の交差点を東へ服部川に沿って3kmも行くと、左手に安座されてる。てっきり川の岸壁に安座されてると思って、対岸を見ておりこの前を探して二往復もしてしまった。到着した6時20分頃には、まだ光が当たってなかったので、先に寺田を参拝撮影して7時に戻って来た時には朝の斜光線に浮かび上がっていた。ただ、電線の影が写り込むのは残念だが。鎌倉時代中期の作といわれる中之瀬磨崖仏は、阿弥陀三尊の左右に不動明王、地蔵菩薩を配している。ちなみに中央の阿弥陀如来の像高は276Cmである。今は磨崖仏の真横を道路が走り、排気ガスに苦しそうでらっしゃるが、かつては川の対岸に大和〜伊賀の街道があって、往来の人々を見守ってらっしゃたことでしょう。 【花ノ木磨崖仏】東名阪道中瀬ICから大内ICまで走り、国道25号線を3Kmも走ると左手高台に花ノ木小学校がある。そこの裏手に昔は街道があって、磨崖仏が安座されてる。街道の面影は微かに残っている。8時、木々の間から木漏れ日が差し込み、それまで影だった磨崖仏に刻々と光が当たり始めた。。美しい!劇的である。移り行く光を楽しみながら、一こま一こまシャッターを切った。右から釈迦如来、中央が阿弥陀如来、左が地蔵菩薩で徳治第一年月日(1306年)の刻があり、像高は約50Cmか。三体並べて極楽浄土往生を祈願したらしい。 【治田地蔵十王磨崖仏】花ノ木から国道25号線を西に走り約5Kmで、名張川にかかる五月橋を渡る。川に沿って対向車が来たら待避所で待たなくてはならないほど細い道を1.5Kmも行くと、突然広くなり大川遺跡公園がある。弥生時代の遺跡が出土した所である。無人に近い公園の駐車場に駐車して、公園を川に向かって歩くと、ほとんど対岸に磨崖仏が拝見できる。川岸から約150mもあろうか。ダムの増水期には地蔵さまの腰まで水に浸かってしまうらしいが、それでなくても今でも近づくことはできない。何故このような場所に・・・?対岸に街道があったのか、それとも名張川での水運が盛んで舟の往来を見守ってらっしゃったのか。。室町時代初期の作とのことである。公園は八重桜が盛りで、美しかった。 ≪参考文献≫『日本の石仏200選』中淳志、東方出版。 |
![]() 写真1.磨崖地蔵菩薩立像 |
![]() 写真2.磨崖梵字地蔵菩薩石仏 |
![]() 写真3.磨崖阿弥陀如来立像 |
![]() 写真4.釈迦如来石仏 |
![]() 写真5.如意輪観音菩薩石仏 |
![]() 写真6.千手観音菩薩石仏 |
三重県安濃郡芸濃町の石仏群へ行ってきました(2003年12月30日)。石山最古の石仏は《磨崖阿弥陀如来立像(写真3)》で、鎌倉時代後期〜室町時代初期の様式であるから、その時代から現在広場になっている所に「浄蓮坊」が有った江戸時代までに刻まれた石仏が中心と思ってよいであろう。 一時代に集中して造られたのではなく、長年にわたって追刻されており、長い時間の経過の中で霊場として民間信仰の場になっていたと思われる。 現在は「石山観音公園」として付近が整備されているが、かつて巡拝道は明治32(1899)年頃に整備されたことがあるようである。岩肌に穿たれた龕に安置される石仏まで、風化はしているが階段が残っているが、これは明治の頃の整備によるのかもしれない。 石山という名前の山の頂上付近は岩が露出しており、そこに穿たれた龕に四十余体の仏像、阿弥陀、地蔵や観音菩薩などがいらっしゃる。 写真1.の《磨崖地蔵菩薩立像》は高さ3.4mで、室町時代初期の作と伝えられる。江戸時代には石山三郷(楠原・林・楠平尾)の雨乞いの本尊で、“現世利益”の側面を持っている。 一方、近所の小川には《磨崖梵字地蔵菩薩石仏(写真2)》があった。これなどはむしろ、『六道の救済』、すなわち閻魔大王の本地仏という“十王信仰”に基づいているのではないかと想像した。なぜこのような小川の岩面に梵字(種子)で地蔵を表現する“カ”を刻んだかというと、この小川が地獄の“三途の川”を象徴しているように思えたからである。 写真3の《磨崖阿弥陀如来立像》は高さが3.52m、台座からの高さは5mにもなる。九品印は“上品下生(来迎印)”である。 写真4は《釈迦如来》と思われる。螺髪であるからだが、手の印相は、両手が合わさっている。 写真5は《如意輪観音菩薩》。右手を頬にあて、顔を傾けていらっしゃる。頭部には宝冠を頂いてらっしゃる。 写真6は《千手観音菩薩》。体の前に4本の手、背後には無数の手が刻印されている。 この石仏群は大きな寺院に属するのではなく、“民間信仰”の場として歴史の中で栄えたことであろう。 |
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Last Updated 2006-06-06