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No.116 南朝( 美作後南朝 )

畿内以外に存在したとされる南朝の朝廷は 美作(岡山県)にも有り、 「美作南朝」または存在が後南朝期のため「美作後南朝」と呼ばれる。

美作国勝田郡植月庄北方で1443年に即位された美作南朝初代高福天皇から第九代の良懐親王 が親王号を剥奪(1697年)されて庶民になるまで254年間、美作に行宮が有ったのだ。

江戸時代には津山城主の森家に庇護されていたが、元禄10(1697)年に徳川第五代 将軍綱吉の時に森家は断絶、直後に良懐親王は親王号を剥奪されてしまった。その10年後 の宝永6(1709)年1月13日、徳川が放った刺客によって良懐(元)親王は 横死し た。

「美作後南朝」を史実とすれば、地方に南朝の皇胤が存在しては、北朝を擁する徳川幕府の 反対勢力に奉り揚げられるか分からないので、抹殺する必要が有ったのだろう。

嘉吉の乱(1441年)で足利幕府に討伐されて没落した赤松家に代って、山名一族が播磨・ 美作・備前を守護し支配した。この山名一族は北朝を奉じる足利幕府への野心から、 南朝皇胤を匿って 美作豊国庄に「植月御所」を営んでいたという。

作州において文化12(1815)年に纏まった「東作誌」の完本が明治36(1903)年に発見 されてことにより、当時の諸学者11人によって内容の解明が行われた。

集まったのは文学博士、法学博士、理学博士、国語教授、宮司、国漢教論であったが、 結論として 「後南朝の大和説・吉野説は徳川幕府によって江戸時代末期に発生した虚史と解され、 真実は美作の植月北方の地が後南朝所在の地であり、往時徳川幕府が津山森藩を 元禄十年に取り潰し、続いて植月の御所も強制的に廃止した」 という判断が出たと いう。

これだけの学者が揃っていながら、偽書説が出ずに美作南朝の存在を肯定したことは、 驚きであるが、やはりこれは異説と思わざる得ない。

上写真2枚;岡山県勝田郡勝央町植月北。
看板に「植月北・高根」の地名が見えるが、この地名の場所に天皇が住む植月仙洞御 所が 有ったという。
嘉吉3(1443)年09月23日、北朝の後花園天皇の内裏を襲撃してた いわゆる「禁闕 の変」 で 神器のうち神璽を奪い、後亀山天皇の嫡孫である 尊義親王がその神璽でもって即 位を した。時の美作守護の山名修理教理は元は新田一族であり、添付写真の植月庄北山 (今の 植月北)に御所を造営し、付近の田庄5千石を付属させた。
この地の御所で即位した 尊義親王は 「天靖」と改元し、美作南朝初代天皇 高福天 皇 と なった。

上写真2枚;岡山県勝田郡奈義町上町川。
御所の艮の方角に 宮城守護の社である 御所宮日吉神社(町川神社)が、初代 高福 天皇の 命を受けて建立された。ただ社伝によると「隠岐に遷幸される後醍醐天皇を追って側 室の広橋が この地で皇子を産み、その皇子が住まわれる御所を造営したのが始まり」となってい る。
しかしその逸話は再考の余地が有るだろう。ちなみに美作南朝第二代 興福天皇は尊 雅王で あり、広橋宮とも称されていたので、広橋とはその関連ではないかと思うのだ。

上写真;岡山県美作市北山。
北山城が有ったと思われる辺り。
二代天皇は紀伊で戦死した義有王の遺児の尊雅である。義有王の戦死を無駄にしない ために その遺児を猶子として、第二代天皇 興福天皇とした。
(尊雅王は熊野で戦死したとも云われているが、、、UP 済) 尊雅が即位した頃、幕府(室町)が植月御所を襲撃する噂が立ち、これに備えて高福 (尊義) の一の宮の尊秀が御所の東南の北山城に入り、二の宮の忠義は高野城に入って御所の 東西を固めた。

上写真;岡山県津山市高野本郷。
高野城跡と思われる場所。ただし城跡を示す碑も無い。近隣の人に尋ねても、城跡と は御存知なかった。城とは近くの津山城のような石垣と櫓または天守を備えた建造物 を連想 されるのかもしれないが。このグランドは昭和22年から昭和56年まで有った「津山市 立 鴨川中学」の跡地という石碑は有ったが、それ以前は不明なのだろう。中世に廃城に なった 城というか館ゆえ、伝承も途切れているのかもしれない。

上写真;岡山県津山市上村。
美作南朝 第三代 忠義天皇御陵である。
長禄元年(1457)、赤松残党は北山城に一の宮・尊秀王を襲撃してその皇子である尊 上王 共々殺害するが、神璽は無事であった。
その翌年である長禄2(1458)年にはやはり赤松残党が植月御所の第二代興福天皇 (尊雅)を 襲撃して弑し奉ると同時に神璽が奪われてしまった。これを美作南朝記では「長禄の変」 と呼んでいるから、現・奈良県吉野郡川上村、上北山村に伝わる史伝とは違っている。
二代天皇の崩御後、初代天皇・高福(尊義)の第二皇子である忠義が即位し、第三代 美作南朝天皇となり、明応と改元した。
忠義天皇の時代である応仁元年(1467)、応仁の大乱が起こった。西軍の山名宗全は 忠義天皇に「西天皇」として御発輦を乞い、忠義天皇は尊朝親王と森久親王の2人の皇子を 連れて京の安山院に行幸した。しかし明応20(1477)年に応仁の大乱が終結すると、 忠義天皇らは植月御所へ還幸された。植月御所に還幸されると、尊朝に譲位して隠居 した。
忠義天皇が崩御されたのは文明12(1480)年のことである。第四代尊朝天皇の時から 南朝年号は不明となっている。
※自称天皇のK沢家伝承では、 応仁の大乱の時に西軍に居た南朝皇胤は「西陣南 帝・信雅親王」だったという。

上写真2枚;岡山県津山市加茂町。
神剣の眠る 菊水山 公卿寺。
宝剣と神鏡を奉じていた美作南朝第八代 高仁天皇(1626年即位)は徳川幕府による 弾圧から 神器を護るために隠祀する。つまり宝剣は1643年に菊水山公卿寺(津山市加茂町公 卿)の 仏像の中に隠し、神鏡は土地の臣である妹尾(瀬尾)に託して 地中(美作市作東町 土居天皇谷)に隠した。 それが先代の住職の時に見いだされ、非公開ながらも公卿寺に剣の存在が伝わってい る。
それは1尺4寸8分の両刃の直刀で、博物館(学芸員?)の鑑定では真偽不明との鑑 定 結果だったそうだ。1尺4寸8分は 56.1センチの長さになる。
宝剣というと長い剣を想像するが、平成元年の 宮中正殿松の間における国事「剣爾 等継承 の儀」で侍従が奉持する姿の写真を拝見すると、せいぜい80センチほどの宝剣の箱 である から、宝剣の大きさとはだいたいその位なのだろう。
ただし美作南朝に伝わった宝剣が、どこ由来か不明だ。
ちなみに後醍醐天皇は流刑地の隠岐から伯耆の国に上陸した時、出雲大社に綸旨を発 して 宝剣の分身になる剣の献納を求めて、それが神器となっている。
そのような例から、皇位継承者が 剣に熱田大神を降臨させて憑かせることで、単な る剣が 宝剣に化けるという発想が有るのかもしれない、特に南朝には。 宝剣の本体(草薙の剣)は周知の如く、熱田神宮に安座されている。
壇ノ浦に安徳天皇と共に沈んで喪失した宝剣、その後は 宮中清涼殿の御剣を宝剣の 代用と していたが、承元4(1211)年に伊勢神宮から剣を得て、以来 宝剣の分身としてい る。

上写真2枚;岡山県美作市土居。
美作南朝の天皇によって土中に隠された神鏡が、発掘された。
皇位継承の正統性は 血統、そして三種の神器の継承が重要視されるが、南北朝時代 ほど 神器が本物か偽物か混沌とした時代は無かった。神器を奉持している自らの正統性を 強く 主張した後醍醐天皇が北朝に渡した神器が偽物であったとか、皇子(恒良親王)に禅 譲した と云いながら自らの正統性を再主張したり、あるいは奪い奪われの中で、どの神器が 伝承さ れてきた正規か分からなくなっているからだ。
神器は源平の壇ノ浦の合戦において、まず最大の紛失事態に陥っている。宝剣は水中 に没し て、回収不可能となったのだ。神璽は海面から回収され、神鏡は平家の船上に残った 状態で 回収されている。その神鏡(八咫鏡)は本体は伊勢神宮正宮に鎮座しているので、 皇位継承で移動する神鏡は分身ということになるが、その分身は三度ほど宮中の火災 で焼け 出されている。特に三度目の 長久元年(1040年)の火災で神鏡は、粉々になってし まった という。つまりそれ以降の神鏡は、きちんとした円形の鏡の完全状態では無く、破片 だったのだ。
そこで話は 美作南朝に戻るが、神剣と神鏡を奉じていた美作南朝第八代 高仁天皇 (1626年即位)は 徳川幕府による弾圧から神器を護るために隠祀する。つまり宝剣は1643年に菊水山公 卿寺 (津山市加茂町公卿)の仏像の中に隠し、神鏡は土地の臣である妹尾(瀬尾)に託し て 地中 (美作市作東町土居天皇谷)に隠した。その妹尾の氏神跡を昭和33(1958)年に発掘 して いた作東町文化財保護委員らは、地中から鏡の破片を発見した。
それは「作東誌」にあるように、妹尾兼澄が天皇の命を受けて埋めた「神鏡」の破片 だろう ということになった。神鏡は前記したように宮中の火災によって粉々になっているか ら、 出土した神鏡も粉々であることで、「燼余の八咫鏡」と呼ばれるようになった。 現在、出土地には石碑と案内看板が立ち、看板にはレプリカ(添付写真)が掲示され ている。
「嘉吉禁闕の変(1443年)」で北朝の宮中お襲撃した時、神器の奪取に成功したのは 神璽だ けであったはずだ。その神璽をもって同年に後亀山天皇の孫の尊義親王が即位し、美 作南朝 初代天皇の高福天皇となるのだ。そして「天靖」と改元している。
「嘉吉禁闕の変」で奪った神器は神璽だけだが、いつどこで正規の神器である八咫鏡 が美作 南朝の元に来たのか、その重要事は不明だ。宝剣についても、多分 代用だろうが、 どこ から来たのか不明である。このように残念ながら一貫性に欠けている「美作南朝」で ある が、諸説出て来るのは興味深いところである。

上写真2枚;岡山県久米郡美咲町飯岡。
美作南朝最後の親王である 良懐親王の墳墓である。
大木の根元に崩れた五輪塔が安座しているが、この石塔が供養塔という。巨大な宝篋 印塔と 石版は、近年の造立である。
江戸時代には津山城主の森家に庇護されていたが、元禄10(1697)年に徳川第五代将 軍綱吉の時に 森家は断絶、直後に良懐親王は親王号を剥奪されてしまった。その10年後の宝永6年1月13日、 徳川が放った刺客によって良懐(元)親王は 添付写真の場所で横死した。

上写真2枚;兵庫県加西市中野町、清慶寺
「南帝山 清慶寺」には、南帝陵と云われる 宝篋印塔が安座している。
円満院仁尊法親王、長禄二(1459)年八月二十三日没 となっており 忠義王首塚と も 云われている。大和説では年月日からは 尊雅王が熊野で襲撃されて落命した頃に一 致する。しかし美作南朝の説をとるなら、第二代 興福天皇(尊雅)が植月御所で赤 松党に 襲われて神璽を奪われて崩御された時期に一致する。はたして大和説か美作説 か、、、。
しかし宝篋印塔の姿は江戸時代後期の形で、被供養者である親王の没後400年前後は 経過しての供養塔である。誰が誰を何の目的で「南帝陵」として供養したか、不明 だ。

上写真;参考文献


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Last Updated  2021-08-05