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延元元年(1336)10月10日(又は09日)に恒良天皇と尊良親王を奉じた新田軍は叡山
を下り、
堅田湊から淡海(琵琶湖)を湖上を北上し、湖北から山を越えて敦賀津に着いたのが
10月13日
(または10日)という。その数、実質的に500〜1000人という。
その皇軍を敦賀津で迎えたのは越前今立郡の豪族・川島惟頼と気比神宮の大宮司・気 比氏治が 率いる700(気比神宮社記による。太平記では300)の兵であった。 合わせて1000人ほどの兵が、手筒山と金ヶ崎城に籠城することになる。その新田皇軍 を攻めるのは 高師泰を総大将とする60,000余騎の足利賊軍であった。6万は大げさとして、その 1/6 としても 10,000の兵が陸海から新田皇軍を包囲したのである。新田皇軍は10倍の敵と戦うこと になったのだ。 |
上写真;気比神宮は大覚寺統と縁が深かったゆえに、新田皇軍に味方するのは宿命
だったかもしれない。
当時、18万石を誇る大神宮であった。
(現・福井県敦賀市曙町)
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上写真;金崎宮。明治23(1890)年、この地で落命された尊良親王を御祭神として、
金ヶ崎城址に
「金ヶ崎宮」が官幣中社として創立された。その2年後には恒良天皇(親王)が合祀さ
れた。
(現・福井県敦賀市金ヶ崎町)
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上写真;金ヶ崎城内では山の地形を利用して郭や空濠が設けられている。
金ヶ崎城の落城は延元二年(1337)3月6日である。これを新暦に変換すると、4月7日
(月曜日)という
ことになるから、ちょうど桜が咲きかかっていた頃だろう。
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上写真;尊良親王陵墓見込地の碑。江戸時代末期、この地から経筒、鏡や椀が出土し
たというが、そのまま
埋め戻されたという。詳細な記録が無いのが残念だが、親王の陵墓というより、さら
に時代が遡る古墳では
なかったろうか。
尊良親王は落城の時に、在城であった新田義貞長子の新田義顕ら諸兵と共に自刃して
いる。
首は京の禅林寺長老の夢窓疎石の元に送られ、葬礼が行われたという。最期の地は本
丸であろうが、胴塚
という可能性は多少有るかもしれない。
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上写真;本丸。
延元二年(1337)年03月06日、落城した。最後まで城に残ったのは337人であり、降
伏した兵は12人、
脱出した兵は12人で、321人は戦死または自害している。
森茂暁氏著【皇子たちの南北朝】(中公新書)をみると、金ヶ崎城で新田義顕らと自 刃した尊良親王には 妻との間に男子が居たというが、その男子が従軍していたのかこの書籍には記載が無 く不明だ。 新田義貞と脇屋義助、そして公卿ら7人は02月05日(敦賀市史)に金ヶ崎城を出て、 瓜生氏の杣山城に 移動している。 将が自軍を離れることは通常は無いので、その男子を助けるべく奉じて杣山城へ赴い ている間に金ヶ崎城が 落城したという説もあり、これは説得力が有るように思う。 正史の記録には残っていないが、あるいはこの皇子を奉じる南朝勢力が「白鹿年号」 を使ったのかもしれない。 「�哨侫.ぅ襦彭�だが、在野の南朝研究家になるが藤原石山氏は、後醍醐天皇が比叡 山で譲位されたのは 尊良親王の皇子の守永親王であり、新田義貞が奉じて金ヶ崎城を脱出したとの考えを 【尾三遠南朝史論】の中で 書いておられる。この守永親王が �哨侫.ぅ襪痢峪芦脇酊�」の祖となっていくので ある。 この説はユニークだが、後醍醐天皇から恒良親王ではなく尊良親王の子へ譲位された 説など 無理だろう。 落城が近いことを知った 恒良天皇はまだ皇子が無かったので、尊良親王の皇子に譲 位して新田義貞に託した、 と私なら想像する(100%の想像だが)。 尚、新田義貞は金ヶ崎城と杣山城の2城を一体的に動かす作戦で、両城を何回も往還 しており、義貞不在 の間を狙って総攻撃が掛けられたという説もある(山本隆志氏著「新田義貞」)。 |
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上写真3枚;(福井県南条郡南越前町 甲楽城 )
国道305号線沿いの甲楽城(かぶらぎ)に「下長谷の洞窟」という石碑が立ち、その
横の岩壁に洞窟が開口
している
延元2(1337)年03月、新田義貞を主将とする 北陸南朝の拠点だった 金ヶ崎城
(現・福井県敦賀市)が
足利賊軍の将に包囲されて落城。
その時に城内から脱出した 恒良親王(受禅されて天皇)が付き添いの武将や公家ら
5人と隠れたという
洞窟が、上写真左の場所である。
「太平記」では 恒良天皇(親王)は 地元の気比神宮大宮司の嫡子である斎晴(なり はる)の案内で小舟で 蕪木浦(かぶらきうら)の洞窟に渡ったというが、地元地誌では「甲楽城」がその場 所であるとの説が存在 する。 一方、「甲楽城」ではなく、金ヶ崎城対岸の鞠山の「蕪木浜」がその場所である、と の説も存在する。 ちなみに新田次郎氏著の小説『新田義貞』では、甲楽城のこの写真の洞窟に隠れた想 定して書かれている。 なおこの洞窟の上には、恒良親王(天皇)、尊良親王そして後醍醐天皇を御祭神とす る、二の宮神社が鎮座 している。 道路が出来る前には洞窟は海に直接面していたはずであり、舟で洞窟に 着岸することは可能 だったはずだ。洞窟は磐屋というよりも、南朝の天皇に由来する聖域として洞窟自体 が祀られ、神社が鎮座 されたのであろう。 |
上写真;杣山城(福井県南条郡南越前町阿久和)
上から、城山の遠景、館跡、二之城戸濠跡。
瓜生氏の三代目である衡の妹が気比神宮大宮司の氏治の母にあたり、瓜生城主の保と は従兄弟になる。 瓜生家には長男の保を含めて4人の兄弟がいたが、その兄弟は当初は足利賊軍にも付 くなど半分に 分かれていた。家を残すための、策だった。しかし結局、すべて新田皇軍につくこと となった。 金ヶ崎城の落城後は杣山城に拠点を移して、南朝軍の再編成や参陣要求を発して反撃 体制を構築した。 延元三(1338)年02月、足利賊軍の将である斯波高経は府中新善光寺城(現・武生 市)あって杣山城 を圧倒していたが、新田義貞の勝ち戦が続き、斯波は足羽城(現・福井市)落ちた。 新田軍は斯波方の 70余の城や砦を落として越前北部に進軍した。この頃には越後からの来援部隊と合わ せて3万余となり、 足利賊軍を圧倒していた。新田義貞は杣山城から、石丸城(現・福井市)へと根拠城 を移していった。 |
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Last Updated 2021-09-27