日本!
No.34 横江の虫送り
撮影場所&日;石川県白山市横江 宇佐八幡神社と周辺、平成19(2007)年7月21日
撮影機材;Nikon D70s+SIGMA10-20mm、D80+VR18-200mm

『平家物語』に素材を求めた、能【実盛】という修羅能がある。平家軍の先鋒として出陣し木曽義仲軍と戦い、加賀篠原で戦死した斉藤実盛の亡霊が出るとの噂に、世阿弥が作曲した能である(※1)。斉藤実盛は白髪の老武者であるが、敵に侮られまいと白髪を黒く染めて出陣した。奮戦するも、田の稲株に足をとられたところを討ち取られ戦死する。世阿弥が噂に聞いた実盛の亡霊は、実際に武者姿だったかもしれない。稲に足をとられて戦死したことから、稲への恨みでこの亡霊はやがては害虫に化し、稲に祟って稲穂が出る時季の稲を害するようになる。田で戦死した斉藤実盛の亡霊は害虫となり、稲に災いをなしているのである。であるから各地の虫送りでは、藁で作った実盛人形が松明と共に田を練り歩き、災いをなす害虫、実は怨霊をその実盛人形に憑かせて村外れに送り出して焼いたり流したりして攘する。が、ここの「横江の虫送り」では実盛人形は登場しない。虫送りにはむろん統一規格など無いのだが、実盛が戦死したのは加賀(石川県)であるから横江から近いにもかかわらず実盛人形が登場しないのは、面白い。あるいは実盛死後に亡霊が稲虫となって災いをなすという話は加賀の地には無く、遠く離れた土地でのみ噂として広がっていたのかもしれない。あるいはこの地の虫送りが、他の芸能の要素を強く導入したためかもしれない。
虫送りには、はやし田や念仏踊りからの転用とされる例も少なくないようだし、逆に虫送りから娯楽的太鼓へと発展した例もあるという。横江の虫送りでは、打面が二尺五寸(約76Cm)の大きな桶胴太鼓が登場するが、このような虫送りは北陸では盛んらしい(※2)。横江の虫送りは、現地にも過去の資料が残っておらず、江戸時代中期ころから始まったと伝わるのみである。土地柄、背後の白山信仰の影響があったかもしれないが、不明である。虫送りのような呪術的芸能には、指導に修験者の存在も想像できようが、白山修験者宗団は天正2(1574)年2月の浄土真宗一向一揆で滅んでおり、白山修験者の影響も不明である。横江の虫送りが始まったとされる江戸時代中期には、白山比神社が白山信仰の中心だった(※3)が、本質は水神だという。太鼓は雷の音に近く、雷神あるいは水神を刺激する雨乞いの呪具として用いられるし、その響きは霊力を持つとされる。さればこそ虫送りでは太鼓の響きと、松明の火の浄化する力で、田に災いをなす邪霊、怨霊を攘していくのである。実盛人形が登場する場合、村外れや神社で焼いたりして攘するのであるが、横江の虫送りでは実盛人形は登場しないゆえ、田を巡った後に神社参道に設けた火のアーチを潜るのであろう。この火のアーチを潜ることで、田を巡って攘してきた悪霊を完全に祓禳できるのである。これはちょうど、左義長が歳神を炎と共に神送りする行事に通じるであろう。つまり火のアーチは、一種の呪術的浄化装置である。実盛は「サノボリ」が転訛したという(※4)。「サ」は田の神を意味するから、「サノボリ」は「田の神上り」ということ、つまり山から里に下りて来ていた田の神送りである。横江の虫送りでは実盛人形は登場しなくとも、左義長のような火のアーチの登場で、田に災いをなす邪霊・悪霊だけでなく田の神も送り出す行事であると、私は撮影しながら思った。

     《参考文献》
     (※1)【能と狂言の世界】小林責、増田正造:講談社
     (※2)【入門 日本の太鼓】茂木仁史:平凡社新書
     (※3)【日本の聖地】久保田展弘:講談社学術文庫
     (※4)【民間暦】宮本常一:講談社学術文庫

上写真4枚;神社を出発し、田の中を巡回する。

上写真2枚;田の所々で大太鼓を叩いて囃す。

上写真4枚;火のアーチの下で囃した後、神社境内まで約100mを全力疾走で突入する。

上写真;境内に入り、篝火の周囲で囃す。


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Last Updated  2010-06-10