■ 山の背比べ と 竹生島(2019年09月 撮影)
上写真;写真中央に竹生島、左の方に伊吹山。
昔々、伊吹山と浅井山の神様が 山の高さ比べをした。ワシの方が高い、とついに喧 嘩になって しまった。そ〜したら浅井山の方がちょっと高かったもんで、怒った伊吹山の神様は 小癪な! と刀を抜いて浅井山の首を バシッ と切り落としてしまった。首はコロコロと転がっ て、琵琶湖に 落ちた。それが竹生島になったのだ。 これまたスペクタクルでもエグイ話である。竹生島と伊吹山が一緒に写るアングルを 求めて出かけた。 天気次第で伊吹山は霞んで見えないことが多いが、運よく撮影することができた。 |
■ おんば石(米原市間田;2019年09月 撮影)
上写真;孝行娘が住んでいた、間田の集落
間田に孝行娘が母親と二人で住んでいた。ある祭りの日、母親のお使いで作った ぼ た餅 を 夫馬という場所の叔母さんに届けることになった。間田から夫馬まで二里ほどある が、途中の 大原野という処へ来た時に、道にしゃがみこむ老婆に出会った。老婆は腹が減って動 けないから 食べ物をくれ と云う。一個のはずであげた ぼた餅を、老婆はついに全部食べてし まったが、 本当に食べたいのはお前だ、と老婆の姿は山姥に変わった。娘は恐怖で目を閉じた が、はっとして 目を開けたら山姥は 石に変わっていた(おんば石;お婆石)。観音様が孝行娘を助 けてくれたのだ。 間田へ行ってみたが、誰もこの昔話を御存じなかった。口伝による伝承が途絶えたの であろう。 |
■ おはなギツネ(長浜市元浜町;2019年09月 撮影)
上写真;大通寺前の御坊表参道には呉服屋さんが並ぶ。
下は大手門通りで食べた、「おはな のっぺい」うどん。長浜名物の「のっぺいうど ん」にアゲが入った、おはなギツネにちなんだ料理だ。 長浜の御坊(大通寺)さんが長浜城の城跡に有った時、賑やかな場所に移そうという 話がもち上がった。 賛否、なかなか話がまとまらないのでそれぞれの意見の人が、京の本山(東本願寺) に意見を伺おう と出かけた。反対派は先に徒歩で向かった。それを聞いた賛成派は慌てて、舟で向 かった。 反対派の人たちが野洲川まで来た時に、おはな と云う美しい娘の居る茶店に寄って 長居をした。それから京に向けて出発すると、晴れているのに野洲川が大水で川を渡 れなかった。水が引くのを待って京の本山に行くと、既に賛成派の人が移転の許可を 貰った後だった。 反対派はしょんぼりと京を後にするが、途中で茶店にまた寄ろうと野洲川まで戻って きた。 しかしその茶店は無い。地元民に訊いても、そんな茶店はもともと無かったという。 長浜の城跡には キツネが住んでいるという話だから、反対派の人たちはキツネに化かされたと思い、 キツネも 賑やかな場所に移りたかったのだろうと自らを慰め、長浜に戻った。 それで長浜の御坊さんには、茶店の娘の名前を付けて「おはなギツネ」が居るという ことになったのだ。 「おはなさん」は、御坊さんの前の呉服屋さんには紅物を、豆腐屋さんにはアゲを買 いに来たりしてるそうだ。 長浜御坊・大通寺は慶長7(1602)年に本願寺第12代教如を開祖として長浜城跡に創 建された。 それが現在地に移転したのは、慶安4(1652)年のことである。この昔話は、その頃 に出来上がった のだろう。 |
■ 伊吹弥三郎(長浜市木之本町;2019年09月 撮影)
上写真;木之本町千田の石作神社には、弥三郎が投げた岩が有る。
千田は石作りの庄と呼ばれており、そこに そうざえもん という男が住んでいた。彼 には玉姫という 美しい娘が居た。伊吹の山に住む伊吹弥三郎という男がこの娘を見て、どストライク になり、嫁に 欲しくなった。伊吹弥三郎は荒くれの乱暴者ゆえ、そうざえもん は 娘はやれん と 断った。怒った 弥三郎は伊吹山の岩石を千田の庄に投げつけてきた。その落ちた岩石が、石作神社に 有る。 伊吹山頂から千田まで直線距離で20Kmほど有る。巨岩を投げる伊吹弥三郎は、相当な 力持ちだった ようだ(汗)。 千田は湖北平野の水田地帯である。石作りの岩石を求めて伊吹山の 方まで出かけていた エピソードが変わった昔話だろうか。 |
■ 山梨子村の風の音(長浜市木之本町;2019年09、10月 撮影)
上写真;山梨子集落の前の湖。遠方に竹生島が見えているから、若者はこの方角に泳いで行ったのだろう。そして下は山梨子集落の遠景。
山梨子の若者がある時、琵琶湖の水の底には洞窟が有るという言い伝えを確かめに、 竹生島の方角に 泳いで行った。湖の底に大きな岩が見れたので潜っていったら、岩の割れ目の洞窟か ら鎧武者が 若者の腕を引っ張り込んでしまった。洞窟の奥は広く、鎧武者だけでなく漁師や農夫 に馬も居た。 鎧武者は若者に、おまえらは豊臣方か? と詰問してきた。聞くと、鎧武者は賤ヶ岳 の合戦で敗れ、 山梨子村の浜辺に追い詰められ 竹生島へ逃れようと湖水に入ったが、そのままと なったのだと言う。 一緒に居る漁師や農夫も柴田方に加勢したために豊臣軍に追われて湖水の中の洞窟に 居るという。 若者は戦の趨勢を訊く鎧武者に、もう合戦は200年も前のことで その豊臣も徳川に負 けて 今では 徳川の十代目、と言うと皆はさめざめと泣くのだった。気の毒になった若者は、寂し い時には 山梨子に遊びに来て下さい、と伝えて戻った。その後、山梨子村では風の音に混ざっ て泣き声が聞こえ 戸を叩く音がすると「湖の洞窟の仏様が寒いので泣いておられる」と話して、仏様を 迎い入れる ようになったという。 昔話に出て来る「200年経った」というコメントからすると、賤ヶ岳の合戦が1583年 だから、1700年代 後半に出来上がった昔話と云えよう。昔話の出来上がった年代が判るのは、珍しい。 この一帯は、賤ヶ岳の合戦の古戦場である。敗残兵が追い詰められて琵琶湖に入り亡 くなったとは、美しい湖面から想像 するのは悲しいことである。 |
■ 余呉の天女(長浜市余呉町;2019年10月 撮影)
上写真;余呉湖畔の天女像。
余呉湖のほとりに桐畑太夫という男が住んでいた。湖畔での魚釣りが終わって帰ろう と思うと、 湖岸の揚柳の枝に見た事も無いほど美しい衣がかかっていた。いい香りと五色に輝く 衣を取り家宝に するために持ち帰ろうとすると、美しい女性が それは天女の羽衣で 無いと天に帰れ ません、と言うで はないか。桐畑太夫は珍品を返す気も無く自宅に戻ると隠してしまった。女は後を 追ってきて、やがて 桐畑太夫の家に住みつき男の子までもうけた。桐畑太夫は有る日、ふと衣の有りかを 子守唄で歌って しまい、それを聞いた女は 子を残して去るのは寂しいが天界の天女の身の定めは破 れない、と衣を 着て天の国に帰って行ってしまった。 残された男の子は菅山寺の阿闍梨に渡されて育てられたが、その話を聞いた京の時の 大臣である菅原是善 が養子として引き取って育て、成人した。その男の子が、菅原道真である。 この話に出てくる桐畑太夫は、「昔話�掘廚� UP した 「菊石姫」の父親でもある。 桐畑太夫は蛇(龍)の 娘をもうけたり、天女と菅原道真をもうけたり、忙しい。菊石姫は弘仁2年(812) 年に生まれ、菅原道真は承和12年(845)年生まれだから、歳の差33歳である。菊 石姫をもうけたのが桐畑太夫25歳の 時とすれば菅原道真をもうけたのは、58歳ということになる。無茶な設定では無い。 フィクションも そう考えると、面白い。ともあれ、この類の話は『天人女房』と呼ばれる話群といえ よう。 余談だが、「羽衣伝説の衣掛け柳」という樹が余呉湖畔にあったが、2017年10月22日 の台風21号によって倒れてしまった。 |
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Last Updated 2019-10-19