日本!(近江の祭・火祭)
No.62 琵琶湖周辺の水に関連して(機ァ
■ 琵琶湖

滋賀県の面積の1/6 を占める琵琶湖は、面積670平方キロ、南北63Km、最大部巾 24Km、湖岸総延長241Kmに及ぶ。

県周囲を1000〜1300m級の山に囲まれた琵琶湖が誕生したのは、400万年前で、現在 地に収まったのは40万年前という。

琵琶の形に似ているから琵琶湖なのだが、この名称で呼ばれるようになったのは、案 外と古くない。元禄時代の 元禄2(1689)年に儒学者 貝原益軒が使ってから文学作品や浮世絵にその名前が登 場するようになったという。

それまでは「湖」とか「淡湖」と呼ばれていたという。

上写真;琵琶湖の風景でも特に好きなのが、月出(長浜市西浅井町)からの眺め。東の古保利丘陵と西の葛籠尾崎に抱かれそれでいて米原方面まで見える奥行きが深い安堵感を与えてくれる。

上写真;琵琶湖沿った湖周道路(さざなみ街道)を走ると、特に東岸の湖北地域で琵琶湖に流れ込む小河川や用水路に水門が設けられているのを目にする。琵琶湖の水位変動で水かさが上がって河川や用水路に逆流し、周辺の土地に逆流しないように設けられているのだ。河川、用水路そして湖が凶器となるのを防いでいる。
写真は、長浜市下八木町の「モロコ樋門」。


■ 姉川中流での水路分水

奥伊吹に発した全長約31Kmの姉川は、湖北の地を潤しながら琵琶湖に流れ込む。湖北 でも特に米原市北部の中流域には姉川の水を 各地区に公平に配分するために機能的、かつ美しい分水施設がある。いづれも動力を 使わず、水の流れで自然と分水されるエコ装置だ。

上写真;「米原市・小田分水」。姉川から米原市伊吹に1953(昭和28)年に完成した 合同井堰(出雲井)で取水された水は、用水路を南西に流れて米原市小田に 達する。同年に設置された分水施設において、大原郷の上地区・下地区、北郷里そし て七尾の3つに分水される。分水は農地の受益面積に応じて区切られて おり、全体の外形は扇形をしている。写真左に水の故郷である伊吹山が見えている。

上写真;「米原市・井之口円形分水」。小田分水で北西方面に分流した水路は、途中 で小山に行く手を阻まれる。そこで一端、水を 地下に落とし、その水勢と水圧で開口部に噴き上がるようにしてある。それをサイホ ンと呼ぶのである。直径4mほどの サイホンから出た水は、三方向に分水されて流れていく。サイホンの発案と機能に感 嘆し、水の流れに見とれる、そんな施設だ。

上写真;小田分水から井之口円形分水方面ではなく、南西方面に分かれた水路は、米 原市間田集落の五川分水に達する。 ここでも水を使う農地の面積に応じて不公平がないように分水川幅を仕切って分水さ せていく。美しい。本当に美しい。


■ 自噴井

湖北の各地には、伊吹山系や霊仙山系からの伏流水が湧水となって自噴している箇所 が各地にある。

上水道が整備されるまで人々が利用した水は、川の水、湧水、井戸水あるいは湖岸に おいては湖水を利用してきた。

そのうちの湧水に分類されるだろうが、川や池の中に涌いてくるのではなく、あたか も井戸のような所見ながらも 自噴して人々の暮らしを支えてきた自噴井戸が存在する。その湧水は鉄分を含む(俗 称;カナケ)場合、メタンガスを 含む場合なども有って飲用には不向きな場合もある。しかし中硬水や軟水で飲用に支 障が無い場合は生活の飲用にも 用いられてきた。自噴井は自宅の庭に吹き出て個人用に使われるケースもあるが、集 落内に吹き出て集落民の共同使用 される場合も多々である。利用に際して人々が集まり、文字通り 井戸端会議 の場と なってもいる。

上写真;米原市世継の通称「カナボウ」という自噴井。水には金気が多いため、水脈 から噴出口までの竹の筒が詰まる ことがあり、定期的なメインテナンスが必要という。金気が多いので飲用には使われ ず、主に農作物を洗ったりに用い られている。水温が16度前後で年中一定のため、夏は涼しく冬は温かいという。ちょ うど農家の人が収穫野菜を洗いに訪れていた。

上写真;長浜市湖北町海老江の自噴井。この集落では飲用にも大丈夫な水が豊富に湧 き出るため、各家庭も自宅に 自噴井を持っており、水道代は払ったことが無いという。集落集会所横でも、勿体ない程に水が溢れていた。

上写真;長浜市木之本町川合の自噴井。洗うための野菜が置きっぱなしになってい た。この集落では各家庭で自噴 するほど多くないので、生活には上水道がひかれている。道路角のこの自噴井戸には 「井戸組」という組が存在して いる。在住の若者が関心を示さないため、現在は中・高齢者6人の「井戸組仲間」が 月に100円づつ出し合って整備、清掃をし合っているという。


■ 南郷洗堰 (大津市南郷)

周囲を山に囲まれた琵琶湖、その巨大な水瓶に流れ込む川は121、支流まで含めると 454にもなる。

しかし流れ出る河川は京都を経て淀川に流れ込む、瀬田川だけだ。

琵琶湖を眺めていると、海ほど満ち引きも無い(全く無いわけではない)し、水位も 昔から変わっていない だろうと思ってしまう。しかしそれは錯覚である。大津市の瀬田の唐橋たもとにある 鳥居川水位観測所が設置 された明治7(1874)年から昭和52(1977)年までの水位変化をみると、年々 水位 が低下してきている。

雪解け水や湧水の水量の低下もあるかもしれない。しかし一方で、台風や豪雨で水位 が異常に上昇したために 琵琶湖周辺に甚大な被害を及ぼした歴史も多々ある。例えば明治29(1896)年9月の 大雨では水位が3.76mも 上昇したことで、浸水家屋28000、浸水面積14800ha もの被害を出している。これは 膨大に膨れ上がる水瓶の水量を 瀬田川が排水不全に陥ったためで、その水害後に瀬田川の排水能力向上のために工事 が行われるようになった。

明治33(1900)年からは瀬田橋〜南郷間5.5Kmの瀬田川の河床を掘り下げ、川幅を110 mに広げた。 そして水位を調整する洗堰が明治38(1905)年に完成した。これらの工事によって毎 秒400立法メーター の水しか流す能力が無かったのが600立法メーターにまで向上した。

添付写真は昭和36(1961)年に作られた、現在の洗堰である。全長173m、十門ある 水門は電動で開閉が可能で、 ある。その後、昭和62(1987)年には琵琶湖総合開発事業の瀬田川浚渫工事によっ て、疎通能力は毎秒800 立法メーターまで向上した。琵琶湖周辺の洪水を避けるために流しすぎると、淀川水 系周辺に洪水を起こすため、 コントロールが難しいところだろう。

撮影に訪れた日、堰は10門のうち3門が開いて放水していた。


■ 幻の大川運河(長浜市西浅井町)

大川(塩津川)という、琵琶湖北端の塩津浜に流れ込む川がある。その川を使う運河 計画がかつて、有った。

平安時代末期、平清盛は嫡男の平重盛に 琵琶湖から日本海側の敦賀まで、大川を 使った運河開削を命じた。

結局は幻となったが、その運河の予定ルートを辿ってみた。

《結論》
1.塩津湊から敦賀へ大川を開削することによる舟運で日本海の海の幸などを畿内 へ、そして畿内からは 若狭などに諸物資を運ぶための運河開削が、平清盛の指示によって嫡男平重盛によっ て行われた。ただし その指示を裏付ける文書などは出典が不明で、実際に有った計画か定かでない。

2.現在も湖北バス停「近江鶴ヶ丘バス停」から深坂地蔵堂にかけて、運河となるは ずだった大川に 沿った深坂古道が残るので歩いてみたが、川幅の拡張など開削工事の痕跡は見いだせ なかった。

3.平重盛が岩盤に突き当たって工事を断念したと伝わる現・深坂地蔵堂境内を流れ る大川は、段差2m ほどの落差の小さい滝があり、この段差を克服せずに上流へ舟を進めることは不可能 なことが判った。

4.川の段差を克服するには 蹴上インクラインやスエズ運河様式の閘門式水門、あ るいはトンネルや バイパス水路が必要だが、平家の時代の土木工事では不可能な状況である。

5.平重盛が岩盤に突き当たり掘ったところ、地中から地蔵菩薩石仏が出たために工 事を中断したとの逸話が 残る。仏尊にも時代によって流行が有り、地蔵菩薩も存在はしていたものの、当時と しては阿弥陀如来が最も ポピュラーであった。

6.深坂古道には、深坂地蔵堂の手前(南側)に石積みが存在した。石積みは 賽の 河原であり、地蔵堂前には 大川に小さな橋もあった。これは大川を三途の川で、渡し橋も想定していると思われ る。すなわち地蔵堂周辺は、 冥界の、そして地獄の擬意空間を意味しておると思われる。地蔵菩薩は閻魔大王でも あるからである。

7. 深坂古道を使った往来が戦国期に新道に代った後は、上記の深坂地蔵堂への参詣 者のためにそこそこの往来が 有り、完全な廃道となって山野に没することが無かったのだと思われる。

8.深坂古道と沿った大川を使った平家による運河開削断念後も、近代に至るまで 多々、同様な運河構想が出された ものの、実現に至っていない。

9.最初の運河計画の「平家による云々」は、深坂地蔵の奇譚として仮託された、後 世の創作話の可能性がある。

10.深坂古道途中、および塩津湊には 「海道」の表記が見られる。内陸部でも 「海」という表記は、日本海 と淡海(琵琶湖・近江)という2つの海を結ぶ、誇り高き名称と思われる。運河は開 通しなかったが、深坂古道が 「海道」として、奈良・平安の時代から主に戦国期までは荷や兵馬の主街道の役割を 担っていたのだ。

(補足)
この深坂古道が新道が主街道となり、街道としての役割を半分失った戦国期以降も 「道」として残ったのは、 御地蔵様への参詣道として使われていた可能性が高いのだ。

普通であれば「御利益」ある御地蔵様への参拝、ってことで完結するだろうが、この 古道を歩いてみて ただそれだけの参詣道ではないことに(想像だが)、思い至った。

地蔵堂、そして川の南80mの処には、小石の石積みが有った。つまり「賽の河原」の 石積みである。賽の河原とは 三途の川の手前に有る石ころだらけの場所らしいが、早世した子供が冥界から両親の 無事を祈るのに、石を集めて塔を 作る(※1)のだという。ただしここは地獄、大きな鬼がやってきて、この石積みを 壊してしまうという。

しかしその鬼を追い払ってくれるのが、地蔵菩薩なのだという。ここで判らないこと がある、、、地獄でも 地獄の門を破って亡者を救い出してくれるのが地蔵菩薩といいながらも、冥土の王庁 で死者の罪業を裁く 冥土の裁判官、すなわち閻魔大王が地蔵菩薩の化身とも云われていることである。い つのころからか、あの世で 子供を救ってくれるという存在が ありがたい裁きをしてくれるだろう という期待か らか、閻魔大王と 地蔵菩薩が習合してしまったのだろうか。

その閻魔王庁である深坂地蔵堂の前には、大川が流れている。すなわち三途の川であ る(添付写真下)。

深坂地蔵に参詣する人は自然と、賽の河原・三途の川・閻魔王庁 という死後の世界 を歩くことになるのだ。

ここを参拝して深坂道を戻ることは、死の世界から蘇ることを意味するのだろう。こ れも「擬死再生(※2)」 体験である。擬死再生を体験することで、自らの逆修供養(生きている間に自分の罪 悪など祓い供養すること) を行うのが、「深坂古道」のもう一つの顔だろう。

単にお地蔵様に御利益をお願いするだけでなく、深ぁ〜い祈念の宗教観が秘められて いるのだと想像しつつ、歩いた。

雪に覆われた無音の道は、まるで死の世界(たぶん〜汗)のようであった。

(※1)逆修供養、追善供養に五輪塔を造塔して功徳をつむ中世の宗教観に通じる が、石を積むだけだから即席性で 子供でも出来る点がポイント。

(※2)死をモドキ、そこから戻ることで魂を再生した、あるいは生まれ変わった自 分がいる。つまりリセット。

上左写真:運河になるはずだった大川。 上写真右;大川に沿った深坂古道。

上写真;地蔵堂の前に大川。閻魔大王王庁と三途の川である。大川は、平重盛が開削 を諦めたという場所で2mほどの段差に着きあたる。

上写真;平家の頃も湊として栄えていた、塩津浜。右側(東側)が大坪川で、かつて は琵琶湖水運の巨大な湊 として大坪川沿いが宿場町として栄えていた。深坂古道、新道をを経て塩津海道(五 里半越え)を陸路、日本海側 から運ばれた荷や人は、ここで舟に乗り換えて琵琶湖の南の大津や堅田あるいは朝妻 や米原方面を目指した。 写真左側(西側)が運河となるはずだった、大川(塩津川)だ。


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Last Updated  2020-05-05