日本! (南北朝)
No.18 長慶天皇御陵墓(2)

各地に点在する「長慶天皇御陵墓」を参拝した(其の二)。
(其の一)

※現地での呼称に従がって表記します。

長慶天皇 [日本第98代天皇、南朝第3代天皇] 寛成親王 長慶院、慶寿院、覚理、 金剛理 1343年〈興国4年/康永2年〉- 1394年8月27日〈応永元年8月1日〉)
在位:1368年〈正平23年/応安元年)〉3月 - 1383年〈弘和3年/永徳3年)冬〉

一番 多く お墓の有る 歴史上の人物は 誰だろうか?

順位は想像でしかないが、おそらく長慶天皇はベスト3に入るのではなかろうか。 南朝の 長慶天皇で、全国に 約70(または200とも)ほどの御陵(お墓)が存在する という。

52歳で死去されているから、毎年1回づつ死んでいても数が合わない。

長慶天皇は諱が寛成(ひろなり)で、1343生〜1394年没と云われるから、南北合一後 も生存していたことになる。

ただ弘和3(1383)年に後亀山天皇に譲位後の動向が、分からないのだ。譲位から没 までの謎めいた11年間から、 長慶天皇の Xファイル が始まるのだ。

その11年間に諸国の南朝勢力の地を巡り、足利賊の追撃を逃れるために 崩御を装っ たというのだ。あるいは死去 したとも。

それにしても全国で70もの御陵の存在を、どう考えたらイイだろうか? 1〜4の パターンで考えてみる、、、

1.実際に長慶天皇が巡った地に敵を欺くために崩御説を 流した。

2.室町時代中期ころ、反室町幕府の武家あるいは民衆 勢力が南朝追慕で考えた。

3.江戸中期の神道興隆期、あるいは幕末の尊王期に 出来上がった話。

4.昭和初期の皇国史観期に出来上がった話。

1〜4のパターンの内、2と4の可能性が高いのではと思うのだが、、、実は4が一 番かもしれない。 長慶天皇が皇統に加わったのが大正15年であるから、それ以前の民に長慶天皇の存在 が、どれほど認識されていたか という事だ。それは確認しようがないが、皇統に加わる前から民も周知の天皇だった のか、皇統に加わった後で 民が、 そ〜〜いえば裏山に天皇が埋葬された、、、と想像から生み出した話なのか という点だ。

話は戻って、即位の有無であるが長慶天皇は南朝が衰微した時であったからか、即位 の有無が江戸時代から議論されてきた。 つまり長慶天皇が即位していれば南朝第三代天皇となるが、即位が無ければ南朝自体 が三代 ということになるから、事は重要であった。ちょうど明治44(1911)年03月 03日に明 治天皇の 勅裁によって南朝が正統(いわゆる南北朝正閏論)と定められた というイデオロギー が有った ゆえ、南朝の正統性を論ずるに避けられない案件で あったのだろう。

大正9(1920)年に公開された八代國治博士の『長慶天皇御即位の研究』などの学問 上の確認 がなされて いることを受けて、大正15(1926)年10月21日に「詔書」に よって長慶天皇の即位が認められ た。

皇統加列が決まれば御陵を定めなくてはならなくなるが、昭和10年6月17日に宮内大 臣の諮問機関 として「臨時陵墓調査委員会」が設置された。その時点で相馬陵墓参 考地(青森県弘 前市)と 河根陵墓参考地(和歌山県伊都郡)の「参考地」以外に も、実に「二百有余ヶ所」の 多きに達して いたという。皇統加列の後に、「おらが 村にも有る」的な村興しで名乗り出た箇所も 多く有ったの だろう。

「臨時陵墓調査委員間」ではその中から全国73ヶ所の調査を行っているが、明らかに 近年に 申し出たような「村興し」的な箇所は除外されたのだろう。

調査委員会ではその調査箇所に分類を付した。すなわち 第一類の(イ)単なる想像 によるもの、(ロ)伝説によるもの、(ハ)付会の説をな すもの、(二)偽作偽物 第二類の 的確なる資料を欠くも尚捨て難きもの である。 

今回、何カ所か長慶天皇の御陵墓と伝わる箇所を参拝してみたが、上記の調査委員会 の昭和10〜11年の 資料における分類以外に、私が参拝してみた現地の状況を下記に 分類してみた

(A)長慶天皇の名前が看板に有り、整備されている、(B)名前も表記なく、荒れ ている、 (C)(A)と(B)の中間。

「臨時陵墓調査委員会」の分類と、その調査の一世紀弱の後に歩いた感想を下記にUP する。


■参考文献(右より)

大正15(1926)年11月28日精文館書店発行「国史研究 長慶天皇御紀傳」 笹原助氏著
大正9(1920)年10月15日発行(昭和2年2月8日改訂版)明治書院発行「長慶天皇御即 位の研究」八代國治氏著
平成24(2012)年 外池昇教授論文「臨時陵墓調査委員会による長慶天皇陵の調査」 〜『日本 常民文化紀要』29
大正15年12月5日正文館書店発行「長慶天皇御事蹟並ニ其取扱」堀尾義根 氏編


■ 河根陵墓参考地( 和歌山県伊都郡九度山町丹生川)

昭和19(1944)年2月11日に 京都の嵯峨東陵が治定されるまで、相馬陵墓参考地(青 森県弘前市・・・UP済)と

この河根陵墓参考地が最もな陵墓可能地と思われていた。

現状は写真の様に荒れており、状況は分類の(C)。

「臨時陵墓調査委員会による長慶天皇陵の調査」においては(偽物)なれど土地柄踏 査をヲ要ス、とされている。


■ 南帝塚・南帝陵伝承地 国王神社(奈良県吉野郡十津川村上野地)

長慶天皇を主祭神とする国王神社には、長慶天皇の「首塚」が存在している。

文中2(1373)年、賊徒の来襲に自害された長慶天皇を重臣が水葬を行ったところ、 数日を経て御首が流れ着き 水底から光を発するのを住人が見つけた。住人が御首を葬り、玉石を置いて「お首 塚」と呼んだという。 (崩御年に関しては、各地でまちまちに設定している)

御首塚とされる神籬には、白玉が敷き詰められた中に直径40〜50センチの丸石が祀ら れていた。自然石を用いた墓標 とも考えられないこともないが、御本殿の背後の丘の上に鎮座することから、奥宮と も思われる。

同じ十津川村には 玉置神社といって白玉石を敷きつめた「玉石信仰」の神社が存在 するようだ。

巨石や巨岩だけが磐座ではなく、小さな石を人工的に敷きつめて磐座とする例が、こ こ十津川村に有ったと思った ほうが良いだろう。

状態は(A)。

「臨時陵墓調査委員会による長慶天皇陵の調査」においては(偽物)なれど土地柄踏 査をヲ要ス、とされている。


■ 長慶天皇陵(奈良県吉野郡野迫川村弓手原)

天皇陵のある「弓手原」の地名だが、現地の案内看板によると、、、

長慶天皇がこの地に辿り着いた時には空腹で疲れ果て口もきけない状態となり、手に した弓で腹を叩いて 空腹を告げたという。そしてこの弓手原で崩御されたという、、、

つまり  腹減った〜 と腹を叩いて餓死されたという解釈になろうか、、、 特大級 の X−ファイルだ。

写真の様に周囲に人家も無い場所だが、陵は整備されており、状況(A)だ。


■ 檜尾塚陵墓参考地(大阪府河内長野市寺元)

令和4(2022)年度の NHK大河ドラマ【鎌倉殿の13人】で、頼朝の異母弟で義朝の子 としては最後に残った 阿野全成が 斬首された。番組中では権力から遠い位置に居て温和な人物像であったが、その温和 さに付入った人たちに翻弄されて、 斬首という凄惨な最期をむかえた。弩迫力で鬼気迫る印を切りながら嵐を呼ぶ中で切 られるシーンは、Yahoo ! の記事によると 3分の放送に6時間の撮影を要したという。

史実において阿野全成は妻となった阿波局との間に男子6人、女子2人の子をもうけ ている。その中の娘の一人が藤原公佐 (滋野井実国の養子、実父は藤原成親)と結婚、その子実直は母方の全成の家名を称 し公家・阿野家(女系子孫)の祖と なっているという。後醍醐天皇の寵愛を受けて南朝第二代天皇、 後村上天皇を生ん だ阿野廉子はその末裔である。

全成の子孫が 北条の鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇の女御になっていたとは、とん だ因果である。

阿野廉子は皇太后となり、南朝が賀名生に行宮を構えた頃院号宣下で新待賢門院と称 していた。

その阿野廉子の御陵墓と思われるのは、河内の観心寺内にある楠正成首塚の近くの墳 丘が確実視されているようだ。

しかし観心寺の近くに 添付写真の 檜尾塚陵墓参考地と呼ばれる場所が有って宮内庁 の管理下にあるが、ここが阿野廉子 の御墓という説もある。ただしこの墳墓は、南朝第三代天皇の長慶天皇御陵という説 も存在する。宮内庁の管理下に有り ながら、誰の御陵かは一切 説明看板が無かった。噂が有るだけで、断定できていな いからであろう。

現状は(B)である。


■ 川上神社裏山石塚(大阪府河内長野市鳩原)

境内に入る左手前に本殿の裏山へ登る細い路がある。道なりに100mほど登ると、写 真のような崩れた石組みがある。

これが石塚とされており、長慶天皇御陵墓との伝承も有る。状況は(B)である。


■ 覚恩寺 十三重塔(奈良県宇陀市大宇陀区牧)

長慶天皇の墓標(または供養塔)と云われる十三重石塔の 笠の部分の 雨だれ を 狙った。

花崗岩製で高さ4.15m、室町時代初期の造塔。時代的に長慶天皇に合致するが、むろ んX-ファイル的 伝承 だ。

案内看板も整備されて長慶天皇名前も認めることができて、状況は(A)だ。


■ 長慶天皇御陵 瑞願寺(富山県南砺市下梨)

住職さんが本堂に招き入れて下さり、添付写真上の画を見せて下さった(撮影許可済 み)。

画には長慶天皇と、天皇を訪ねてきた綽如(しゃくにょ)が描かれている。綽如は南 北朝時代の浄土真宗の僧で、 浄土真宗本願寺派第5世宗主・真宗大谷派第5代門首である。

どちらが長慶天皇か不明ということだが、庄川を渡る渡し籠に乗る図である。

しかし、、、この渡し綱が切れて長慶天皇と綽如は川に転落して亡くなってしまった という。

だからこの地に長慶天皇の御陵が有るのだという、、、長慶天皇は事故死だったの だ!

初めて聞く説であるが、住職さんが仰るのだから、その伝承も何百年も伝わって来た 可能性が有るのだろう。

瑞願寺の裏山は天王山(天皇山)といい、御陵である塚が存在すると教えられたので 訪ねてみたが、僅かな 石組みが存在するだけで、明瞭では無かった。

よって状況は(B)である。


■ 隠尾八幡宮(富山県礪波市庄川町隠尾)

本殿背後に4本の御神木が立ち、その間に自然石の石塔が有るが、この塚が長慶天皇 の御陵という。

お社自体は美しいが、御陵としての状態は(C)である。


■ 伝 長慶天皇御陵 安吾寺(富山県南砺市安吾)

写真のような表示板の横の階段を上がった先には、崩壊した庚申塔が数基、草に埋も れていただけ だった。お寺の境内案内図では御陵の前に鳥居が描かれていたが、実際には鳥居は存 在しなかった。

長慶天皇が眠るという X−ファイル は、ロズウェル事件の X−ファイル より可能性 が低いように思う。

状態は(C)である。


■ 伝承 長慶天皇陵墓 桜谷神社(鳥取県鳥取市桜谷)

南朝第三代である 長慶天皇の 御陵墓とされる 宝篋印塔が、鳥取市面影地区の桜谷 神社背後の山中に存在する。

山中の神社拝殿までは素直に歩けたが、御陵墓への道が分からない。 麓の民家で訊 ねたら、拝殿前の籠堂の手前 から入る道が有るが 最近は整備していない、とのお返事。

荒れ山ゆえ 入る道らしい処も分からないので、適当に山中へ分け入って行く。 倒れ た竹や樹木を乗り越え、張り 巡らされた蜘蛛の巣や、襲いかかる藪蚊に苦戦しながら歩く。すると目的の宝篋印塔 に辿り着いた。

史料 昭和十一(1936)年四月【長慶天皇御陵伝説箇所関係書類審議一覧一】におい ては、
「(附会)(偽物)玉川宮関係ヨリ生セシト思ハル、附会ノ伝説ナリ」
と記載されている 御陵墓である。信憑性が 0.01% だとしても、参拝に訪ねる のが長慶天皇ファンとしての流儀だ。

状況は(B)である。


■ 長慶天皇御陵推定地(浮島御陵) 浮島神社(愛媛県東温市牛淵)

近年造塔された大きく綺麗な五輪塔の横に風化した五輪塔が安座してるが、どのよう な経緯と来歴で御陵となったかは 不明だ。

状況は(A)である。


■ 長慶天皇供養塔 光林寺 (愛媛県今治市玉川町畑寺甲)

和歌山県伊都郡九度山町丹生川の《長慶天皇河根陵墓参考地》の近くには 丹生神社 が鎮座している。主祭神は 丹生都比売命で、農業・養蚕・織物に御利益の神様である。山間で広い田畑も確保で きない場所で、昔は養蚕が主なる 収入源だったのかもしれない。 その丹生神社の境内末社に、玉川神社がある。

長慶天皇の諱は寛成(ゆたなり)であるが、この玉川神社の御祭神は 寛成大君で、 長慶天皇が祀られている。

長慶天皇を家祖とする世襲宮家は、玉川宮と号するが、この宮号は長慶天皇が晩年を 過ごしたこの近所にある玉川渓などの 地名に由来する。

そしてここ、愛媛県で長慶天皇の史蹟が存在する場所の地名が 玉川 (今治市)であ る。

和歌山の長慶天皇史蹟の玉川、そして愛媛でも玉川。不思議な一致だ。 写真は 光林寺。

元中2(1385)年09月、長慶天皇(当時は 後亀山天皇に譲位後なので、正確には長 慶院)が御潜幸されたという。

境内には近年の建立だが、立派な長慶天皇供養塔が建っていた。そして小さい墓石に は写真下左「観子姫之命(宮ノ上)御陵」、 右側に「尊聖皇子 御墓 長慶天皇第三皇子」と刻まれていた。尊聖皇子は八代博士の 本(参考文献)によると、勤修寺大僧正 などを経て永享四年(1432)に没している。



■ 長慶天皇御陵 金泉寺(徳島県板野郡板野町)

昭和十一(1936)年四月、臨時陵墓調査委員会による『長慶天皇御陵伝説箇所関係書 類審議一覧一』において、 「長慶天皇應永五年崩御ノ事ヲ刻セル石棺ノ蓋等ノ偽物ヲ基トスル妄想ナリ」と記載 されている。

長慶天皇研究の八代博士によると、崩御は應永元年(1394)とされている。八代博士 による研究発表前に作られた 伝承なのだろう。

御陵の内部には自然石が安座しており石棺の蓋の形状では無かったが、管理状況は大 変素晴らしい(A)である。


■ 獅子窟寺(大阪府交野市大字私市)

本堂の手前約100mの参道に、左へ入る細い山道がある。やはり100mも 歩くと「王の墓」と称する石塔が二基存在する。説明看板では 亀山上皇 及びその皇后の墓ということだが、一説によると長慶天皇御陵とも伝わる。

石塔は五輪塔の地輪に火輪を載せ、風空輪を置いたバランスの悪い寄せ集め 塔である。風空輪が地火輪の大きさにアンバランスなのも残念だ。

ちなみに宮内庁比定の亀山天皇陵は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒馬場町に 存在する。


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Last Updated  2023-06-27