日本人は自然界の存在と現象の森羅万象に、神々の存在を感じてきた。その中でも魂が昇る天に近い場所として、山は聖域として捉えられてきた。山自体が神として考えられる原始神道から時を経て、仏教伝来に対抗するかのように神道の整備が進んだ。後に平安時代に密教が盛んになると、神道と習合していく過程で山中他界観が生まれた。さらに密教の呪術性や陰陽道の暦・天文の学問や民間宗教が混ざり合うことで、神・精霊や死霊住まう山間で修行をすることで特殊能力を身に着けようとする“修験道”が生まれていく。
さて【写真1】の滋賀県甲西町の、車谷不動明王磨崖仏である。仏像なのに、注連縄が掛けられている。
神道において、神は姿を現さない。が仏教ではさまざまな仏像が、視覚的に仏法の力を訴えかけてくる。
不動明王が盛んになったのは、やはり密教が盛んになった平安時代からで極憤怒の形相が「心の中の悪へ怒りを向けて諌める」のだ。その力強さから、平安後期以降は怨敵調伏、怨霊鎮撫または呪詛にも願を掛けられた。江戸時代にもなると「お不動さん」として庶民の間では疫病退散など、親しまれる仏像となった。車谷磨崖不動仏は室町時代の作である。
注連縄は、社殿・斎庭(ゆにわ)・鳥居や神輿など神聖な場所や神道道具に渡したり、引き廻されたりする。神の居ます場所や降臨される神聖な場所を示しているのだ。
仏像に注連縄を掛けるとこで、“神域”となっている。この車谷磨崖仏は、仏=神(!)である。
仏教でいう不動明王を本地仏として、垂迹神は“天手力男命(アメノタジカラオノミコト)”である。岩戸に隠れた天照大御神を引っ張り出した輩である。
怪力の象徴が、不動明王にピッタリなんであろう。が、夜から昼を取り戻した功労者である。
すなわち、ここの不動明王磨崖仏は、現在においても神仏習合時代の姿を残して(!)仏像に注連縄を掛けて祀っているのだ。
なお注連縄につく紙垂は、奉書(楮製の上質紙)または半紙を使うが、古いタイプでは楮の樹皮を編んで使う。
日本人は自然物にも神を認めたが、よく見かけるのは石(磐座)や樹木(神籬:ひもろぎ)に注連縄が掛けられた姿である。
注連縄が巻かれていても、(1)神の依代(神が降臨される目印)と、(2)それ自体が神の神威を現す、この2パターンが有るように思う。
【写真2】の猪形の石は(2)ではなかろうか。旧暦10月の「亥の日」には、収穫を祝う祭祀が行われたそうで、亥(猪)の多産が豊穣のシンボルとなっていたようである。猪の形をしたこの石が五穀豊穣・子孫繁栄の神威を現すとして祀られたと思われる。かなり民間信仰的ではある。
【写真3】は、磐座として注連縄が巻かれた経緯は不明であるが、(1)のパターンではなかろうか。
【写真4&5】の注連縄の巻かれた御神木であるが、神域ではないので(2)のパターンであろう。
【写真5】は歩道に鎮座されるタブノキである。タブノキは本来、直幹であるが、写真の樹は風害などで破損した幹が再生して途中で分かれ横広形に限界まで拡張している。この生命力に「神」を見たのであろうか、注連縄が巻かれている。
【写真4】は、道路の車線を塞いで立っている。渋滞を起こすが、切ろうとすると祟りがあるとの伝承がある。祟りがあるから神として奉り上げる、“祟り神”としての御神木は珍しいのではなかろうか。立派な樹であるから、渋滞は些細なことである。末永く大切にすべき樹であろう。
【写真6&7】は、実は神でも仏像でもない。が、誤った国策の元、皇居の中の神への至誠のシンボルとなった時期を考えて、あえてここにUPしました。
懐かしい二宮金次郎像である。最近、建て替える小学校では二宮金次郎像は撤去しているそうである。
二宮金次郎像が建立され始めたのは1932〜1933(昭和7、8)年頃といわれ、皇国意識・国威発揚の思想風潮に二宮の「勤勉・倹約・忠孝」のイメージが嵌り、学童への修身(道徳)教育を像としてシンボル化することで、国策に利用された。
私の【日本!】のNo.1に楠木正成像がUPしてあるが、楠木の皇国殉死思想とこの二宮像は兄弟関係ではなかろうか。。さすが戦前・戦中でも「皇居の中の神」に近いからとて注連縄が巻かれることは無かったが。。ただ、あと200年もすると江戸時代の講の道祖神と同様、当時の思想を知る石像になる可能性もあるかもしれない。もっとも、TVゲームに興じる現代っ子には、働きながら勉強する像の姿は別の意味で教材になりえるかもしれないが。。。