日本!
No.50 二見興玉神社 龍宮社例祭 郷中施
京都「きゅうり封じ」

■ 二見興玉神社 龍宮社例祭 郷中施

撮影場所&日;三重県伊勢市、 平成21(2009)年6月7日
撮影機材;Nikon D300+VR18-200mm

およそ二百何年昔、この地を襲った津波の犠牲者の追善供養と、郷内安全祈願が、龍宮社例祭「郷中施」である。例祭は津波の襲った旧暦日に斎行されるが、本年は日曜日になったので、奉拝・撮影してくることができた。
寛政4(1792)年旧暦5月15日、この地を津波が襲った。二見郷江村は殆ど壊滅し、難を逃れて残ったのは数戸という。やがて村人は助け合い、施し合って立ち直った。以来、犠牲者の供養と郷中の安全を祈り、龍宮社でお祀りが行われている。以前は大江寺の住職によって供養が行われていたが、昭和13年に二見興玉神社の境内一隅に遷せられて龍宮社となったという。
午前10時から社殿内で祭典が斎行されてから、80Cmほどの木舟に「きゅうり・みる・まつな」が供物として乗せられ、龍宮社の目前の龍宮浜で舞女(巫女)さんによって海に献じられる。供物の「きゅうり・みる・まつな」は、「急に・見るな・待つな」という津波を忘れぬ教訓としての語呂合わせだという。みる は、緑藻類。まつな は、乾塩性植物で、潮に浸 からない海の陸地側に生育する海岸植物である。供物ではあっても、食用になるのか不明だ。単に語呂合わせで選ばれたのだろうか、、、。あるいはキュウリには意味が有ると思うが、みる と まつな は、ちょう ど榊のように常緑樹的に選ばれたのかもしれない。キュウリの意味は、ちょい意味深だと思うのだが、考えすぎかもしれないが、、、。キュウリは祇園、すなわち牛頭天王の紋がキュウリ紋なのである。周知のように、牛頭天王は疫神であり、疫神をキュウリに封じ込めて流す依代・ミテグラがキュウリなのである。牛頭天王は龍宮への旅にも関係しており、この郷中施という祭典は、元々は牛頭天王関連の行事ではなかったかと、勝手に想像している。伊勢には蘇民将来護符を玄関に掛けた民家が、現在でも見られる。伊勢と蘇民将来の関連は、どこからきているか不勉強だが、もし二見興玉神社において現在斎行されている神事が牛頭天王所縁だとしたら、多少は伊勢市内でみられる蘇民将来護符存在の謎を解く鍵の一つにもなるのではなかろうか。
キュウリが「急に」の語呂だとは、単純に考えられない点もあり、郷中施の奉拝・撮影は大変楽しみであった。撮影日は風が強く、波が高い。舞女さんも大変だったろう。

実は大きな疑問点がある。この地を襲った津波は、寛政4年5月15日だという。村が壊滅する程だから、かなり大きな津波だったろうし、被害は伊勢市の海岸線全域には及んだであろう。津波の原因は大地震しか有り得ないだろう。しかし、この日の地震を(社)日本地震学会の「日本被害地震年表」や「二見浦歴史年表」で探しても、無いのである。津波ということで伝承されているが、実は大雨で背後の山が地すべりを起こしたとか、疫病の蔓延とか、そのような可能性は無かったのだろうか。ただ、疫病がその頃にこの地で流行したかは、WEBでは調べることができなかったし、書籍など資料の持ち合わせも無い。地震ということでは、夫婦岩が鳥居の役割を果たしている海上の磐坐であった興玉神石が水中に没した大地震がある。それは安政1(1854)年1月4日の「安政東海・東南海・南海地震」であり、大津波も発生してこの地も被害を被っている。疑問点は飛躍するが、この興玉神石は猿田彦命が降臨された場所だという。伊勢神宮内宮の正宮内にも興玉神石を祀るが、ゆえにそれは猿田彦命と云われたりする。あるいは天照大御神が伊勢に来臨される前から祀られていた土地の神様だとも云われる。興玉神石も、謎に包まれている。二見興玉神社におかれては、「藻刈神事」で興玉神石は脚光を浴びる祭典がある。

拙HP、蘇民将来
拙HP、藻刈神事
(社)日本地震学会HP

上写真;祭典における「浦安の舞」

上写真5枚;竜宮浜で、木舟に載せられた供物を海に流す。舞女(巫女)さんが海中に入り、途中からは船頭さんがもう少し沖まで曳いていく。船頭さんが投じ終えて戻ってくるまで神職さんらは整列して拝をし、待つ。

上写真4枚;平成25(2013)年6月23日撮影


上写真4枚;平成28(2016)年6月19日撮影


■ 京都 「きゅうり封じ」

撮影場所;五智蓮華寺(京都市右京区御室大内)、神光院(京都市北区西加茂神光院町)
撮影年月日;平成21(2009)年7月19日、撮影機材;Nikon D300+VR18-200mm

三重県伊勢市二見の二見興玉神社さんでの特殊神事「郷中施」を奉拝・撮影させて頂いてから、この神事の意味に興味を持った。
社伝によると、寛政4(1792)年旧暦5月15日、この地を津波が襲い、多くの犠牲者が出たことで、村内安全と供養を目的としているという。しかし調べてみるとこの日付に津波の記録は無く、津波ということになっているが、実際は大雨による土砂災害や疫病の蔓延などで村内が被害を被ったのではないかと思った。そして、この二見興玉神社さんの近くにはスサノオを祀る松下社が安坐されており、そのスサノオの正体は疫神・行疫神である牛頭天王なのである。その松下社の周辺は「蘇民の森」と呼ばれており、「蘇民将来」護符は伊勢市内でも現在も散見できる。このようなことから、「郷中施」で小舟に乗せられて巫女さんによって海の中へ運ばれ流される供物の一つであるキュウリは、牛頭天王を象徴的に表し、この「郷中施」も牛頭天王由縁の祭礼ではないかと推測した次第である。
このことからキュウリの存在に着目し、キュウリを用いて病気平癒の加持祈祷を行う「きゅうり封じ」の撮影に京都へ出かけた。
キュウリは祇園の紋であり、祇園祭りのシンボルマークである。祇園祭りの起源は、京都の民草を夏の時季に襲う疫病を起こす行疫神が牛頭天王(又は荒ぶるスサノオ)であるから、祇園社(八坂神社)に祀り上げて封じ込めようとしたのである。現在でも京都では「キュウリは祇園祭りの間は、畏れ多いし、勿体無いから食べてはならない」と言われている。本来、キュウリは中が中空のようで水水しいから、悪霊を溶け込み封じ易い依代・みてぐら と考えられていたから、そのキュウリの中に疫神の牛頭天王を封じ込めてしまうわけである。それが牛頭天王=キュウリ=祇園祭りマーク、となった訳で、現在の京都でキュウリを食べるのが勿体無いという考えは、既に本来の意味が見失われているといえよう。祇園祭りの頃のキュウリは勿体無いのではなく、疫神・悪霊が封じ込められた恐ろしい状態なのだ。祇園祭りの終盤の頃、京都市内の三箇所の寺院(蓮華寺・神光院・三宝寺)では、そのキュウリを用いて体の悪い処、病気の処を撫でて病苦を和らげて長生きし、安楽に往生できるようにする加持祈祷が行われている。私は今回、蓮華寺さんと神光院さんで取材してきたが、共に真言宗のお寺で、弘法大師以来の秘法なのだという。両寺に細かい作法の違いは有っても、基本はキュウリに悪苦を移して封じ込めようということに変わりは無い。ゆえにこの「キュウリ封じ」の加持祈祷と、祇園祭りの延長線上にあると考えても良いだろう。話は再び、伊勢二見。牛頭天王を祀る松下社には、『牛頭天王儀軌』という、牛頭天王の逸話に関する文書が伝わっているという。原文書は弘法大師作と伝わるという。現在、二見興玉神社さんで斎行される「郷中施」であるが、昔は真言宗の大江寺で供養が行われていたという。京都における真言宗寺院での祇園祭り関連の「キュウリ封じ」、伊勢二見における真言宗寺院の存在そして牛頭天王文書、これらの存在は、「郷中施」で供物として流されるキュウリが、牛頭天王であることを示唆しているとは十分に考えられないだろうか。すなわち、「郷中施」は祇園祭りの要素の祭礼と考えるのである。(私論であること、お断りします。)

拙HP「松下社
拙HP「蘇民将来

上写真2枚;五智蓮華寺。祈祷祈願者の名前が書かれた細紙をキュウリに貼る。それを僧侶が加持祈祷しながら、独鈷で護符をキュウリに埋め込む。祈願者は、そのキュウリで三日間 体の悪い処をさする。そして土中に埋めるか、お寺に持参する。

上写真2枚、左写真;神光院。名前年齢など書かれた半紙でキュウリを包み、加持祈祷してもらう。祈祷後は持ち帰って土中に埋めるか、寺内のキュウリ塚に納める。


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Last Updated  2016-06-20